1サムエル24:1-7 『主に対するように、人に仕えなさい』(サウルとダビデ)2020/06/28 小西孝蔵
今回は機械のトラブルのため、動画を撮ることができませんでした。
申し訳ございません。
「主に対するように、人に仕えなさい」(サウルとダビデ)
〇サムエル記24章
「24:1サウルがペリシテびとを追うことをやめて帰ってきたとき、人々は彼に告げて言った、「ダビデはエンゲデの野にいます」。 24:2そこでサウルは、全イスラエルから選んだ三千の人を率い、ダビデとその従者たちとを捜すため、「やぎの岩」の前へ出かけた。 24:3途中、羊のおりの所にきたが、そこに、ほら穴があり、サウルは足をおおうために、その中にはいった。その時、ダビデとその従者たちは、ほら穴の奥にいた。 24:4ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。 24:5しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。 24:6ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。 24:7ダビデはこれらの言葉をもって従者たちを差し止め、サウルを撃つことを許さなかった。サウルは立って、ほら穴を去り、道を進んだ。」
〇サムエル記上18章
「18:7女たちは踊りながら互に歌いかわした、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」。18:8サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。 18:9サウルは、この日からのちダビデをうかがった。」
〇詩編57篇
「57:1神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまではあなたの翼の陰をわたしの避け所とします。」「57:9主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます。57:10あなたのいつくしみは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及びます。」
〇マタイによる福音書5章
「5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
〇マタイによる福音書20章
「20:27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。 20:28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」
〇ピリピ人への手紙2章
「2:6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
(祈り)
1.初めに
①コロナウイルスの第2波が懸念されていますが、コロナの副次的効果で、オンライン礼拝とreal な礼拝のハイブリッド効果が生まれつつあります。企業でもテレワークで働きやすくなった声と、他方、オフィスワークでは、話し合いでアイデアが生まれたり、信頼関係が深まったりするとして対面のメリットを再評価する声もある。皆さんはいかがでしょうか?
②こうしたテレワークで人間関係が希薄化しても、厄介な職場の人事評価はなくならないし、家庭での人間関係は、夫婦が向き合う時間が増えストレスを感じている人も?我が家では、zoomの陣取り合戦が激化。他者とどう共存していくのか、上司や家族との人間関係をどう築いていくべきか、サムエル記上に記されたサウルとダビデの主従関係から学んで見たいと思います。
2.これまでのあらすじ
・(15章)イスラエルの民は、神に対する不信から王を求め、預言者サムエルからサウ
ル王が選ばれた。サウルは、ペリシテ人などの戦いに勝って、傲慢になり、主に対して、
律法の形だけ守るが、心は神に聞き従わなかった(面従腹背)。このため、主は、サウ
ルを王にしたことを悔やまれて、新しい王を選ぶために、サムエルをベツレヘムのエッ
サイの元に遣わしました。サムエル記上16章から23章まで早送りしてお話しします。
・(16章)サムエルは、エッサイの7人の息子の中から選ぼうとするが、主は、サムエルに「人は、うわべを見るが、主は心を見る」と言われた。サウルは、イケメンで背が高かったが、羊の番をしていたダビデは、そうではなかった。でも、ダビデが、主に対して誠実な心を見て、神様から、サウルの後を継ぐ王として、選ばれ、サムエルから油を注がれました。
・(17章)ダビデは、神に絶対的な信頼を置いていました。ペリシテ人との戦いで、主を信じ「この戦いは主の戦いだ」と言って、羊飼いの石投げの武器で敵将ゴリアテを倒した。サウルは、ダビデを召し抱えることになったが、ダビデは、ペリシテ人との戦いに遣わされたが、どこへ行っても勝利を収めました。
3.サウルの嫉妬とダビデへの攻撃
・(18章)イスラエルの女たちは、戦いから帰ってきたダビデを迎えて、「18:7踊りながら互に歌いかわした、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」。18:8サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。 18:9サウルは、この日からのちダビデをうかがった。」
・(19章)サウルは、嫉妬を感じて、槍でダビデを殺そうとしたが、ダビデは、身をよけた。その後、サウルは、娘ミカルが彼を愛しているのを知って、彼女をダビデの妻に与えることを口実にして、ペリシテ人の手でダビデを殺そうとして、戦いの前線に送り込みました。 → サウルのダビデ暗殺未遂を題材にした絵画
(パワポ資料、出典「聖書大百科」、創元社)
しかし、ダビデは、さらに勝利を収めたことから、サウルは、ますますダビデを恐れ、自宅に招き、再び、」琴を弾いていたダビデに槍を投げつけて殺そうとしたが、ダビデは、身をかわして逃げた。サウルの娘、妻ミカルは、ダビデをかばって、ダビデの家にいると見せかけて、彼の逃亡を助けました。
・(20章)サウルの息子、ヨナタンは、ダビデと真の友情を交わしていたので、父サウルの心が変わらず、ダビデを殺そうとしているのを確認したので、野原でダビデを遠くに逃げるのを手助けした。その後、サウルは、ダビデを執拗に追い回して殺そうとしました(21章~23章)。→ ダビデの逃亡の経路(パワポ地図、
出典「バイブルワード」、いのちのことば社)
4.本日の箇所―エンゲディにおけるサウルとダビデの対峙
・(列王記上24章)ダビデが死海のほとり、エンゲディの荒野の洞穴に隠れていた時、サウルが追って、近くにまで迫った。またもや絶体絶命のピンチに陥る。
(余談ですが)エンゲディの町は、私たちが、30年近く前に、イギリスから家族でキブツ(イスラエルの共同体が経営するホテル)に泊まったところ。この洞穴らしきところに行ったので、印象深い。ダビデは、羊飼いなので、避難場所として洞窟はなじみがあったのではないでしょうか。
・ピンチは、チャンスに変わった。サウルは、洞穴に用を足しに入ってきた。絶好のチャンス、部下は、彼を殺せと言った。ダビデも一瞬、行動に出ようかと迷ったに違いない。真っ暗な中、ダビデは、サウルの上着の裾をこっそり切り取った。この後、ダビデはこのことを後悔した。なぜ後悔したか? 従者が敵将を殺す絶好のチャンスと進言。ダビデは、一瞬その誘惑にかられたのであろう、裾を切り取ったが、即座に後悔しました。
サムエル記上24章「24:6ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」
・ダビデは、洞穴を出て、サウルに上着の裾の切れ端を見せて、主君に背きの意思がないことを訴えた。サウルは、泣いてダビデに対する殺害行為を詫びた。
(余談ですが)現在、コロナで中断されている大河ドラマ「麒麟が来る」を楽しみに見ている。信長を本能寺で殺した明智光秀との違い、主君を殺したものの最期は哀れ。
4.本日の箇所から学ぶ3つのこと
1)嫉妬は人間の本性
・サウルは、自尊心が人一倍強く、ダビデの活躍で民の評判を集めているのが赦せなかった。私たちも、自分と近い人間、分野や環境が似ているほど、嫉妬を感じることが多い。これらが全然違う場合には、感じないことが多い。他人と背比べして生きている。私自身も若いころ、他人と比較して自分をみじめに思ったり、嫉妬を感じたりすることがあった。原罪ともいうべきこの罪の縛りから解放され、本当の自分を発見するまでは、自分の力では解決できない。
2)御翼の陰に宿る-神への信頼
エンゲディの洞穴で隠れていた時の心境をダビデは詩編57篇に記している。命を狙われているような絶体絶命のピンチで、ダビデは、主に絶大な信頼を寄せている。御翼の陰に避け所を得るという祈りは、前々回お読みした詩編91篇と同じ。
詩編57篇「57:1神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまではあなたの翼の陰をわたしの避け所とします。」
神様は、窮地において助け手を与えて下さる。ダビデの場合、サウルの息子ヨナタンと娘ミカルが遣わし、父の暗殺計画からダビデの逃亡の手助けをしてくれた。
3)敵をも愛し、人に仕えるーイエスの姿を予表
・主君から殺されようとしても、あくまで歯向かわなかったダビデの生き方は、十字架の死において敵をも赦し、人間の罪のために身代わりになられたキリストの愛を指し示している。
マタイによる福音書5章「5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
ピリピ人への手紙2章「2:6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
「僕のかたち」とは、英語で、bondservant。姿を取って、私たちに仕え、罪の中にある私たちを贖い出す(救い出す)ために、命を投げ出して仕えて下さる。本当にもったいないことです。
・1990年代、「社畜」という流行語がはやった。会社に飼いならされ、サービス残業もいとわない奴隷のように働かされた労働者を揶揄した言葉。最近、娘からこういう言葉を聞いて、思い出した。今は、パワハラ現象がどんどん公にされている状況。上司に従うということは、言いなりになることではない。神に従うことが第一。
・私のサラリーマン時代に支えとなったのが、このダビデの生き方に象徴されたキリストの言葉でした。管理職時代、上と下との間に立って、責任を全うする時に、神を信じ、主君に仕えるダビデは、生きるお手本だった。皆さんは、どうでしょうか。
・イエスが生前繰り返し言われた言葉は、主が人に仕えて下さったように、人に仕えなさいということです。
マタイによる福音書20章「27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。 28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」
・本日のタイトル「主に対するように、人に仕える」ということは、会社、家庭や組織やコミュニティの中、そして、人生の歩みの中で、私たちが主と共に歩み、主が私たちに仕えて下さったように、隣人に仕えていこうではありませんか。
5.最後に
本日は、サウルの迫害に最後まで耐えて、神と主君に仕えたダビデの姿を通じ、十字架の贖いとして命を与えてくださったイエス様の限りない愛に触れることが出来ました。人間関係が希薄化したり、分断や差別が広がったりする中で、ダビデのように、神の恵みを心から感謝し、心から主をほめたたえつつ、人と社会に仕える存在でありたいと願います。
ダビデの特徴は、主を賛美すること。主と共に歩み、主を賛美できるから、敵をも愛し、隣人にも仕えることが出来るのです。最後に、洞穴での危機体験をダビデが読んだ先ほどの詩編57篇の後半の箇所を一緒にお読みしましょう。
詩編57篇「57:9主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国
の中であなたをほめたたえます。57:10あなたのいつくしみは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及びます。」
(祈り)
(参考)スモールグループでの話題(例)
1.あなたは、妬んだことがありますか?それは、どんな時だったでしょうか?
2.人から攻撃されたようなとき、どう反応しますか?相手を赦すことが出来ますか?
3.どうしたら、ダビデのように、神様に仕え、王(上司、部下や配偶者等)に仕えることが出来るでしょうか?