マルコ6:7-13 『神の国の福音を伝える』 2020/08/30 けんたろ牧師

マルコ 6:7-13
6:7 また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。
6:8 そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻の小銭も持って行かないように、
6:9 履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。
6:10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい。
6:11 あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」
6:12 こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、
6:13 多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。

先週は、日本人に福音を伝えることの難しさについて考えた。
日本人が狭い門を見出し、通ることは難しい。
しかし、それはもちろん不可能なことではない。
多くの日本人が狭い門を見出し、広い道ではなく、狭い門をくぐる時が来ると信じている。
そのために私たちは何ができるのか?

① 神さまにより頼み、出ていく
イエスさまは弟子たちの内の12人を呼び、二人一組にしてイスラエルの町々に遣わした。(マタイ10:1-15)
どのように遣わしたのか?
聖書の学びをすることによってか?
伝道の訓練をすることによってか?

6:7 また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。
6:8 そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻の小銭も持って行かないように、
6:9 履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。

イエスさまが弟子たちに命じたのは、神さま以外の何にも頼らないということだった。
人間的な方法でその壁を乗り越えることは困難。
私たちが福音を宣べ伝えるために、神さまの力は不可欠。
神さまにより頼むために、弟子たちは最低限のもの以外何も持たないで宣教に出かけた。

福音を伝えるために必要なのは、聖書をもっと知ることではない。
神学を学ぶことでもない。
全てを神さまにより頼み、権威を受け取って、私たちが出ていくこと。
後は神さまを信頼すること。

② 人々は御業を通して救われる
当時の人々は、癒しや悪霊を追い出すという奇跡を目撃してイエスさまを受け入れた
聖書の中では、いつも御業を通して人々は神さまを体験している。

現代でも、癒したり、悪霊を追い出す奇跡は起こる。
でも、現代に起こるべき奇跡とはもう少し違うものかもしれない。
人々の悩みは、癒しや悪霊ではなかったりするからだ。

人間県警の回復や、経済的満たし、生活習慣の改善など、現代人は別の問題を抱えている。
それぞれの人々が抱える問題のために祈り、癒され、回復することを通して神さまを体験するかも知れない。

どんなことでも、神さまを知らない人たちのために祈り、神さまに解決していただこう。

③ 相手の世話になる
そもそものきっかけ作りはどうすればいいのか?
イエスさまは驚くべき方法を示している。

6:10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい。

これは、「客はもてなさなければならない」という当時の習慣によって成り立っている。
そこには対等の関係があり、もてなした側は自分の家に相手を招いているので、心を許している。
そこで相手が必要としている助けを聞き、相手のために祈り、必要を見てしていく。

まずは対等で信頼できる関係を築くことが大切。
関係を築く前に何をしても、疑いが起こってしまう。

そして、神さまの御業は押しつけがましく見せつけるのではなく、愛を持って相手に仕えること。
そして、そこに余計な条件を付け足さないこと。

余計なものとは、「酒やたばこを辞める」とか「毎週日曜日に教会に通う」ということ。
それは、神さまとの関係を回復するための条件ではない。
神さまとの関係を深めるためには辞めたり、始める方がいいことはあるが、それをクリスチャンの条件にしてしまっては、福音ではなくなる。

まずは神さまとの関係を始め、そこから少しずつ学んだり、経験の中で変えられていけばいい。
神さまは素晴らしいお方であり、素晴らしい神さまの愛を体験して神さまを知ったなら、神さまを受け入れない人の方が稀。
ほとんどの人たちにとってクリスチャンになる道を阻害してしまっているのは、「酒たばこを辞めたくない」とか、「日曜日に教会に通えない」とか、「仏壇やお墓を持っている」などの2次的な問題だけ。
そのような問題は、クリスチャンになって神さまとの関係が築かれていく中で、変えられ、癒され、悔い改めていけばいい。
それも、伝える私たちの責任ではない。

しかし、それでもその人が神さまを受け入れなかった場合。
それは相手の側の問題なので、伝える私たちにはもう責任がない。

6:11 あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」

「足の裏の塵を払い落とす」というのは、「もう私には責任がない」ということの表明。
神の国の福音を伝えるという責任は果たしたが、相手がそれを受け取らないなら、その責任は相手の側にある。

後は、相手のために祈ってあげよう。