マルコ6:30-44 ㉘『必要は満たされる 』 2020/09/13 けんたろ牧師

マルコ 6:30-44
6:30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。
6:31 するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。
6:32 そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。
6:33 ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。
6:35 そのうちに、すでに遅い時刻になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。
6:36 皆を解散させてください。そうすれば、周りの里や村に行って、自分たちで食べる物を買うことができるでしょう。」
6:37 すると、イエスは答えられた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」
6:38 イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」
6:39 するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
6:40 人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。
6:42 彼らはみな、食べて満腹した。
6:43 そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
6:44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

バプテスマのヨハネが殺されていたころ、イエスさまに送り出された弟子たちがそれぞれの町から戻ってきた。
イエスさまは弟子たちを静かな場所で休ませようとする。
誰にでも休みが必要で、それは神さまと静かな時間を過ごす時でもある。
しかし、イエスさまたちの元には、休む暇もなく人々が押し寄せてきた。

① 休む暇もない弟子たち
私たちが人々の必要を満たしてあげようとするなら、人々は必要を満たされたくて依存的になってしまう。
「必要が満たされることを知る」というステージは必要なことではあるが、そこで終わってしまうと私たちはずっと人々の世話をしなければならなくなってしまう。
イエスさまが弟子たちを育てたように、自立できるように導いていかなければならない。
この時は、人々の必要に対して弟子たちの成長のスピードが追い付いていない。

使徒の働きの時代には成長のスピードが劇的に上がっているので、必要なのは聖霊だということがわかる。
私たちも、癒されること、慰めることだけを求めるのではなく、聖霊に従って生き、自立していくことが必要。

私たちは、イエスさまがいつまでも生きていてくれたらよかったのにと思うかもしれないが、それではあっという間に限界がきてしまう。
私たちが聖霊を通して直接神さまと繋がり、教えられ、導かれ、癒されていく必要がある。

② 5つのパンと2匹の魚
さて、ついて来た人々が帰る間もなく、食事をしなければならない時間になってしまった。
イエスさまは、弟子たちが彼らに食べ物を与えなさいと命じる。

そこには、すでに5千人以上の人々が集まっていたが、彼らの持ち合わせは200デナリしかない。
200デナリは200万円ほどの価値のお金なので、それなりのお金があったことはわかるが、それで数千人の人たちを食べさせることは難しい。
何よりも、そんな量の食料を買うことができる場所など存在しない。

6:37 すると、イエスは答えられた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」

弟子たちは思わず不満をもらした。
イエスさまがパンの数を確認すると、そこには5つのパンと2匹の魚があることがわかった。(ヨハネの福音書によれば、それは少年が捧げた者だったことがわかる)
イエスさまがそれを祝福して分けると、5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人々の腹が満たされ、余ったパン切れは12のかごをいっぱいにした。

③ イエスさまはすべての必要を満たされる
私たちは、霊的な満たしに関しては神さまに頼っても、世の中のニーズは自分の力で満たさなければならないと思っているかもしれない。
弟子たちも、イエスさまによって授けられた県によって様々な奇跡を体験して帰ってきたにも関わらず、自分たちを通して神さまが人々の必要を満たしてくださると信じることができなかった。

神さまは、どんな必要も満たすことができる。
もちろん、「棚から牡丹餅」のように簡単に叶うわけではない。
イエスさまのその条件を、このように告げている。

マタイ 6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

神さまは私たちが必要としているものをご存じなのだから、心配しなくても必要は満たしてくださる。
しかし、そのためには、私たちが神さまの御心に従って生きていなければならない。
「神の国と神の義を第一にする」とは、私たちが自分の思いや常識を優先するのではなく、神さまの声に耳を傾け、神さまの意志に従うこと。

5つのパンと2匹の魚が、5千人以上の人々の空腹を満たすことができるなど、誰が考えただろう?
しかし、彼らがイエスさまに信頼してそれを差し出した時、「神さまが」御業を起こし、必要は満たされた。
どんな時でも神さまに信頼して行動する時、私たちはさまざまな奇跡を体験する。