マルコ7:1-13 『本当のきよめ』 2020/09/27 けんたろ牧師

マルコ 7:1-13
7:1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。
7:2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。
7:3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、
7:4 市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。
7:5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』
7:8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
7:9 またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。
7:11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、
7:12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。
7:13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」

かつてイスラエルの人々には、彼らが神とともに歩むための指針となる律法が与えられた。
それは、イスラエルの人々に求められている生き方の指針であるとともに、われわれ人間が決して正しい者とはなれない罪人であることを自覚するためのものでもあった。

しかし、それを宗教的なルールとして定め、表面的に守ることで正しい人間になれると考える人々が出てきた。
彼らは、その律法によって人々を縛りつけ、その枠に収まらない者たちを蔑んだり、人ではないような扱いをするようになった。
それが、律法学者であり、パリサイ派ユダヤ教徒である。
彼らは、神のことばを宗教に変え、自分たちの理解や行動の範囲のものへと縮めてしまった。

イエスさまの人気を聞きつけた彼らがイエスさまの元を訪れたところから、今日の話は始まっている。

① 手を洗う儀式
食事時になると、パリサイ派の人々や律法学者たちは手を洗ったが、イエスさまと弟子たちはそれをしなかったと書かれている。
これは、現代のように衛生上の目的で手を洗うかどうかという話ではなく、宗教的な儀式として手を清める行為のことを指している。
神道でも、神社に入る前に手や口を清めるが、それと似ているかもしれない。

彼らは、汚れた物や人に触れることによって自分たちの体も汚れてしまい、その汚れを体内に入れないために、宗教的な清めの儀式が必要であると考えていた。
そして、汚れた人々に対してはとことんまで蔑んだ。

イエスさまたちが手を洗う儀式を行わないのを見ると、ここぞとばかりに攻撃をしかけた。
そして、そのことによってイエスさまの評判を落とし、神の戒めを蔑ろにしていることを糾弾しようとしたのである。

② 言い伝えか、神のことばか
では、イエスさまはその糾弾に対してどのように答えたか?
イエスさまは、旧約聖書のイザヤ書を引用しながら、表面だけきよめて自分がきよいつもりでいるあなたたちは偽善者であると言った。
そして神の戒めを守っているつもりの彼らは、実は人の言い伝えを守っているだけで、神さまの戒めは蔑ろにしているのだと指摘したのである。

神さまは、私たちが両親を敬い、必要な時には親の面倒を見て養うことも必要だと示していた。
しかし、律法学者やパリサイ派のユダヤ教徒たちは、律法で定められていることの穴を突いて、「あなたに分けるはずだったものは、コルバン(神さまへの捧げもの)になりました」と言えば、親たちを養わなくてもいいと教えていたのである。
それは、彼らが律法を解釈して定めたルールとしては違反していなくても、神さまの心を完全に無視した教えだった。

私たちは、律法学者やパリサイ人たちのように、神さまのことばよりも人の言い伝えを大切にしてしまっているようなことはないだろうか?
教会の中で定めた人間的なルールが、神さまの心より優先してしまっていることはないだろうか?
私たちに求められているのは、表面的な正しさや、「ルールを破っていないかどうか」ということではなく、私たちの心が神さまの心と一致しているかどうかということである。

③ 本当のきよめ
宗教的な人々は、外から来るものが私たちを汚すと信じている。
まるで、私たちはきよいものなのに、他のものが汚れているとでも言うようである。
しかし、汚れているのは私たちの外にあるものではなく、私たちの中が汚れている。

マタイ 15:11 口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」

マタ 23:25 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。

大切なのは、私たちが外側をきよめ、正しい人間であるかのようなふりをすることではなく、私たちが本当に汚れた存在であり、神さまにきよめられる必要がある存在だということを知ること。
犯罪を犯したり、誰かに大きな迷惑をかけてはいなかったとしても、私たちの心は汚い思いや自己中心で満ち溢れている。
私たちはその罪のけがれを、神さまにきよめていただく必要がある。

私たちが信仰を持ち、神さまの心を求め、神さまの心に近づいていくなら、そこに内側からのきよめは起こる。
まずは、神の心を知るところから始めよう。

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