マルコ7:14-23 『罪との向き合い方』 2020/10/04 けんたろ牧師
マルコ 7:14-23
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。
7:15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」
7:16 【本節欠如】
7:17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。
7:19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。
7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、
7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」
食事の前にきよめの儀式を行わないイエスさまや弟子たちを見て、パリサイ派のユダヤ教徒や律法学者たちは驚いた。
どれだけ外側をきよめて、きよくなったようにふるまっていても、内側がけがれているので全然きよくはなっていない。
本当のきよめは内側から起こらなければならない。
では、内側からのきよめはどのようにして起こるのだろうか?
① 罪を認める
大切なのは、まず自分の罪を認めること。
私たちにとって、自分の間違いや失敗、罪を認めることは難しい。
自分は間違っていないと思いたいし、環境や人のせいにしたくなってしまう。
しかし使徒ヨハネは、手紙の中でこのように書いている。
1ヨハネ1:8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
クリスチャンになったから罪がなくなったわけでも、罪を犯さなくなったわけでもない。
自分が正しいという傲慢は、自分を神と同列に見る別の罪へと繋がることになる。
② 方向転換する
罪を認めた私たちはどうすればいいのか?
「罪を犯す私はダメな人間だ」と自分を貶めることが神さまの望んでいることではない。
1ヨハネ 1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
私たちの罪は赦され、神さまがきよめてくださることを知る必要がある。
第一に、イエスさまが十字架で命を投げ出し、私たちの罪を贖ってくださったことを受け入れること。
そこに信仰の第一歩がある。
しかし、「赦されたことを信じた」だけでは、入り口に立っただけでしかない。
多くのクリスチャンがそこで止まってしまっている。
しかし、価値観が変わり、行動が変わっていくのでなければ、何もきよめられていないのと同じことである。
では、どうすれば罪は赦され、きよめられるのか?
そのためには「悔い改め」が求められている。
「悔い改め」とは、方向転換すること。
まずは罪に背を向け、方向転換することも大切。
しかしもっと大切なのは、「どこから方向転換するか」よりも、「どこに方向転換するか」ということである。
私たちは、今まで背を向けていた神さまに向き直り、イエスさまとともに歩み始めなければならない。
イエスさまに聞き、従い、共に歩んでいくなら、私たちは罪からも離れていく。
「何をするか」「何をしないか」に焦点を当ててしまうと、結局は罪にばかり目が行くことになり、私たちの行動は不自由なものになってしまう。
喜びをもってイエスさまとともに歩む生き方は、罪からも、律法からも自由な生き方。
③ 新しい自分として生きる
もう一つ大切なのは、私たちが「罪人として生き続ける」のではなく、「新しくされた自分として生き始める」こと。
これは、私たちのアイデンティティが変わるということである。
クラスのいじめられっ子が、追い詰められて放った一撃でいじめっ子を倒した後、生まれ変わったようにクラスでの行動が変わることがある。
それは、「いじめられっ子」というアイデンティティが、「いじめっ子を倒した」アイデンティティに変わったから。
根暗なオタクから自信満々のリーダーに、落ちこぼれから勉強大好き人間に変わるのも、何かがきっかけとなってアイデンティティそのものが変わるから。
アイデンティティの変化が私たちの価値観を変え、行動を変え、生き方を変える。
私たちの新しいアイデンティティは、神がひとり子を犠牲にするほどに愛した神の子であり、王子であり、キリストの弟子。
それを新しいアイデンティティとして生きるとき、私たちは生き方もきよい者として生きるようになる。
エペソ 5:8 あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。