マルコ7:24-30 『未信者の信仰』 2020/10/18 けんたろ牧師
マルコ 7:24-30
7:24 イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
7:25 ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。
7:26 彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。
7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
7:28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
7:29 そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
7:30 彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。
イエスさまは、ツロという国に向かった。
癒しだけを求めて押し寄せてくる人々や、イエスさまを何とかやり込めようとするパリサイ派のユダヤ人たちや律法学者から離れるためである。
しかしそこでも、イエスさまが来たことを聞きつけた異邦人の女が、「娘に入っている悪霊を追い出して欲しい」とやってきた。
「汚れた悪霊」に取りつかれた状態がどのようなものなのかはわからないが、この女性は娘を救いたくて必死だったことがうかがえる。
① イエスさまの答え
イエスさまの答えは、意外と冷たいものだった。
7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
7:28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
この女性や悪霊につかれた娘のことを「子犬」扱いしているということではなく、イエスさまは優先順位について話している。
イエスさまが優先的に福音を伝える必要があったのは、ユダヤ人たちであった。
神さまは、アブラハムの子孫を通して世界の救いを起こし、ユダヤ人たちから救いが広がっていくことを計画していたから。
異邦人の救いも、もちろん神さまの計画の中にあることだった。
イエスさまが十字架にかけられた後には異邦人たちに福音が伝えられたし、多くの人々が救われていった。
しかし神さまの計画は、まずユダヤ人たちに救いの道が拓かれることであり、ユダヤ人たちを通して世界中の人々が祝福されるということだった。
イエスさまの働きの最大の目的は、ユダヤ人を対象とした働きであり、ユダヤ人たちの中で救いを完成することが大切だったのである。
② 異邦人の女の反応
「私の役目はユダヤ人たちに伝えることなんだよ。自分の子どもの晩ご飯を取り上げて子犬にあげるのはおかしいでしょう?」
と、伝える順番があることを話すイエスさまに、異邦人の女はそれでも食い下がる。
7:28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
イエスさまのたとえをそのまま使いながら、「子犬でも子どものおこぼれをいただくことはあるでしょう? イエスさまがユダヤ人に遣わされていることは知っていますが、そのついでに私も救ってくださることは可能なのではないでしょうか」とイエスさまを説得しようとしたのである。
必死にイエスさまを求める信仰は、イエスさまの心を動かした。
マタイの福音書では、この時のイエスさまの反応がもう少し詳細に記されている。
マタイ 15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
③ 未信者の信仰
マルコの福音書によれば、イエスさまは「娘は癒されたから帰りなさい」と言われたという。
家に帰るまで、この女性が娘の癒しを確認することはできていなかった。
しかし、イエスさまのことばを信じて帰っていったのである。
イエスさまへの、はっきりとした信頼(信仰)を見ることができる。
皮肉なことだが、イエスさまが伝えようとしていたユダヤ人たちよりも、異邦人の方がいつでも反応が良かった。
このような出来事から考えさせられることがある。
本当に神さまが喜ばせることは、教会に通い、キリスト教という宗教組織に所属していることではない。
私たちに信仰があるかどうか、つまりイエスさまとの関係の中に生きているかどうかである。
宗教的に熱心でありながら、ユダヤ人たちがイエスさまを疲れさせ、幻滅させ一方で、救いの選びから外れたと見られていたような異邦人の女性の信仰がイエスさまの心を動かした。
私たちは、ユダヤ人たちのようになってしまっていないだろうか?
同時に、心からイエスさまを求める未信者がいるならば、その方たちがもっとイエスさまを知り、絆を深められるように、私たちが手伝うことができるはず。
宗教ではなく、天の心、キリストの心を求めていこう。