マルコ8:11-21 『パン種に気をつけろ』 2020/11/15 けんたろ牧師

マルコ 8:11-21
8:11 すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。
8:12 イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません。」
8:13 イエスは彼らから離れ、再び舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。
8:15 そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」
8:16 すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。
8:17 イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。
8:18 目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
8:19 わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
8:20 「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
8:21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

パンを分けて多くの人々のお腹を満たすという奇跡のあと、イエスさまたちは「ダルマヌタ地方」に行った。
ダルマヌタ地方には「マグダラ」という町もあり。

① しるしを求める不信仰の時代
しかし、そこにパリサイ派のユダヤ教徒たちがイエスさまと議論を始める。

マルコ 8:11 すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。
8:12 イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません。」

彼らが議論をしたのは、「天からのしるしを求め、イエスさまを試みる」ため。
「天からのしるし」=イエスさまが聖書に預言されていた救い主であるということの証拠。
「お前はみんなから救い主であるように噂されているが、本当にそうなら証拠を見せてみろ」というわけである。
しかし、イエスさまは深くため息をついて、「どんなしるしも与えらません」と言い、その場を後にした。

イエスさま救い主であるという「しるし」は本当にないのか?
旧約聖書には、救い主に関する様々な預言があり、イエスさまはそのすべてに当てはまっていると言われる。
その生涯や、起こった奇跡の数々、生きざまそのものがしるしと言えるだろう。
それなのにイエスさまは、「しるしはない」と言う。

もし彼らがそのしるしを見たとして、彼らはそれによって信じただろうか?
彼らは結局の何かと文句をつけて、信じなかっただろう。
「信じない」と決めている人々を信じさせることは、神さまにもできない。
例え信じたとしても、自分に都合が悪いことが起こると「あれは気の迷いだった」とすぐに気が変わってしまうだろう。
それは「信仰」と呼べるものではない。

へブル 11:1 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

② パリサイ人のパン種、ヘロデのパン種
舟の上で、イエスさまは弟子たちに「パン種」の話をしようとした。

8:15 そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」

パン種とはイースト菌のようにパンを膨らませるもののこと。
人の心に入ると増殖し、膨らんでいく悪い価値観や考えを、イエスさまはパン種に例えて話をしようとしたのである。

パリサイ人のパン種とは、宗教心はあって規律や戒律を守っても、そこに神との信頼関係などなく行いばかり気にする価値観のこと。
ヘロデのパン種とは、人々に取り入るために立派な神殿を建てたりしたものの、やはり表面だけの取り繕っただけで不信仰な状態のこと。
このような価値観は、すぐに増え広がっていき、私たちの心を支配してしまう。

しかし、弟子たちもまた、すでにそのパン種に支配され、神への信仰が分からない状態だった。

③ 弟子たちの不信仰
弟子たちはイエスさまのことばを理解できず、弁当のパンを用意できなかったことをイエスさまが怒っているのではないかと勘違いして議論し始めた。
そんな弟子たちを、イエスさまはたしなめる。
それは、弟子たちがイエスさまの言葉の意味を理解しなかったからではなく、弟子たちが不信仰のパン種に冒されて、まだパンのことを心配しているからである。

8:17 イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。
8:18 目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。

5000人の人々が5つのパンと2匹の魚で満たされ、4000人の人々が7つのパンで満たされたのを体験しても、イエスさまとともにいるということがどういうことなのかを、彼らはまだ悟らない。
これでは、先ほど退けたパリサイ派の人々と何も変わらない。

本当に大切なのは、私たちがイエスさまを求めること。
イエスさまに聞き従い、なすべきことをなしていくこと。
必要はすべて満たされる。

マタイ 6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

私たちは、パリサイ人のパン種、ヘロデのパン種に冒されてはいないだろうか?
パン種は少しでの私たちの中で広がってしまう。
パン種に支配されないためには、私たちの心はいつも神さまとの信頼関係で満たされていなければならない。