マルコ8:22-26 マルコ㊱『心の目を開いて』 2020/11/22 けんたろ牧師

マルコ 8:22-26
8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。
8:23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。
8:24 すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。
8:26 そこでイエスは、彼を家に帰らせ、「村には入って行かないように」と言われた。

ダルマヌタ地方でパリサイ派の人々と議論したイエスさまは、「パリサイ人のパン種、ヘロデのパン種に気をつけなさい」と言った。
私たちは、神さまとの関係を忘れ、宗教的になったり、表面的な信仰でごまかすという不信仰に陥りやすい。
そしてそれは、パン種のようにすぐに広がっていき、周りの人々にも影響を与えてしまう。
弟子たちもまた、その影響を受けて神さま、イエスさまへの信頼を失ってしまっていた。
ダルマヌタ地方を離れたイエスさま一行は、ベツサイダに到着する。

① 目が見えない人を癒す
ベツサイダに着くと、人々は目の見えない人をイエスさまの元に連れてきた。
この人を癒して欲しいと言うのである。
その人を村の外れに連れていくと、イエスさまはその人を癒した。

8:23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。
8:24 すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。

耳が聞こえない人を癒した時と同じように、イエスさまはただその人を癒すのではなく、その人と関わり、その人に分かりやすい形で癒していった。
イエスさまは、癒しそのものよりも人々との人格的な関係を大切にしているからである。

② 村から離れる
少し謎なのは、イエスさまがその人を村の外れに連れて行って癒したことと、癒した後、村には戻らないようにと告げたことである。
その理由については何も書かれていない。
おそらくは、今は大きな騒ぎにならないようにしたかったということと、人々の関心が「癒し」だけに向いてしまっていたからだろう。

イエスさまの目的は、人々を癒すことではなく、神さまとの関係を回復することだった。
そのフォーカスがずれてしまい、多くの人々は癒されることばかり求めていた。
私たちも、どんなことでも神さまに求めることはできるが、本当に大切なことを忘れないようにしたい。

③ 心の目が開かれる
私たちにとって大切なのは、心の目が開かれること。
パリサイ人のパン種やヘロデのパン種が広がると、本当に大切なものが見えなくなり、信仰も見失ってしまう。
しかし、そんな私たちの目を、イエスさまは開いてくださることができる。

ついさっきまで、お弁当のパンを忘れたことに心を奪われていた弟子たちは、この出来事と同時に目が開かれ、信仰を取り戻した。
ペテロはこの後、とても大切な信仰の告白をする。

マルコ 8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」
8:29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」

信仰を見失っていたペテロはこの時、イエスさまこそが旧約聖書に預言されていた救い主であることを見出したことがわかる。
ここには、目が見えない人の目が開かれた体験が影響を与えているように思える。

パリサイ派のパン種やヘロデのパン種に気をつけなければ、その価値観がすぐに広がってしまうのと同じように、良い信仰が伝染することもある。
私たちは、良い影響を伝染できるように生きていきたい。
大切なのは、私たち自身がもっとイエスさまを体験すること。
イエスさまとの関係の中で、イエスさまとともに歩み、イエスさまに聞き従って生き、その喜びに満たされること。

私たちも、イエスさまによって心の目を開かれよう。