マルコ8:27-38 マルコ㊲ 『自分の十字架を負う』 2020/11/29 けんたろ牧師

マルコ 8:27-38
8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」
8:29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。
8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
8:35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
8:37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」

ベツサイダで盲目の人の目を癒したイエスさまたちは、ピリポ・カイサリアで福音を伝えられた。
そこでイエスさまは、「わたしを何者と思いますか?」という質問をと弟子たちにした。
その時、ペテロが大切なことを口にする。
「あなたはキリストです。」

それは、イエスさまこそ聖書に預言されている救い主だという信仰告白である。
同じ人を見ていても、その人を何者として認識するかということは人によって変わる。

イエスさまを偉大な宗教家として見る人もいれば、大ウソつきだと考える人もいる。
しかし、イエスさまを神の子として、そして救い主として見なければ受け取れないもの、理解できないことがある。

① 十字架の道
それからイエスさまは、キリストとして生きることはどういうことを意味しているのか、そしてこれから何が起ころうとしているのかということを弟子たちに話した。
「多くの苦しみを受けること」「長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられること」「殺され、三日目によみがえること」である。

キリストとして生きる道には苦難が伴う。
人々を愛するために自らを捨て、人から憎まれても神さまの道を進むこと。
豊かさや、安全、自己実現とは正反対のところにある生き方。
しかしその道は、単なる自己犠牲ではなく、自らを捧げることの中にこそイエスさまの喜びがあった。

② 人間的な反応
しかし、それを聞いたペテロはイエスさまをいさめた。
「何ということを言い出すのですか? あなたが死んでしまうなんてとんでもない。私が守りますから死なないでください。あなたこの地上を治める偉大な王となるのですから」というのである。

イエスさまはそんなペテロを、「下がれ、サタン!」と戒めた。
強烈なことを言っているようだが、「あなたこそキリストです」と告白したペテロがこのようなことを言うところに大きな問題があった。
それは、イエスさまがキリストであることがわかっていながら、それを否定し、止めさせようとする言葉だったからである。

人々は地上での支えとなり、政治的にこの世界を正し、治める王を求めていた。
しかし、「王」によって世界は変わらないことは、すでにイスラエルの歴史が証明している。
ダビデによっても、ソロモンによっても、ヨシヤによっても、イスラエルは神さまから離れて罪の道を進むことをやめなかった。
聖霊によって満たされることによってしか、救いの道は開かれないのである。
ペテロは、イエスさまがそのことを話した矢先にそれを否定して、人間的な方法を求めたのである。

私たちも、神さまによるのではなく、人間的な方法での解決や、幸せばかりを求めてはいないだろうか?
そして、そのために神さまによる方法を否定してしまってはいないだろうか?
私たちが心から求めるべきは、人の思いが実現することではなく、神さまの方法が世界を変えることである。

③ 自分の十字架を背負う
イエスさまは、この「十字架の道」はイエスさまだけのものではないことを話している。

8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
8:35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。

もちろん、私たちが命を投げ出したところで、誰の罪も贖うことはできない。
でも、私たちがイエスさまの弟子として生きようとするなら、自分のためだけに生きるのではなく、周りの人々に仕え、愛することが求められている。
そして、それは同時に自分自身の幸せにつながることでもある。
そしてそこには、イエスさまや使徒の働きの弟子たちが体験していた大きな幸せと喜びがある。

「自分が何を得るか」というTakeの価値観である限り、この幸せは理解できない。
Takerではなく、人に仕え、与えることに喜びを感じるGiverになることが、十字架の道に生きること。
自分の十字架を背負って生きるとは、そんな生き方である。
イエスさまの弟子として、イエスさまとともに生きていこう。

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