マルコ9:1-8 ㊳『神の国到来』2020/12/06 けんたろ牧師

マルコ 9:1-8
9:1 またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
9:2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。
9:3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。
9:4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。
9:5 ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
9:6 ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。
9:7 そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」
9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。

前回は、ペテロが「下がれサタン」と言われたことと、イエスさまの弟子として生きるためには自分の十字架を負う必要があるということについてだった。
「そのあとすぐに」という表記がないので、前回から少し時間は経過しているかもしれない。
今日の話は唐突に始まる。

9:1 またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

これが何を意味しているかということに関しては、いろいろな議論がある。

① 神の国は天国のこと?
「神の国」と聞いて、多くの人たちが連想するのは「天国」かもしれない。
しかし、イエスさまが語られる「神の国」は、多くの場合「死後の世界にある楽園」のことを意味していない。
楽園としての天国は、黙示録によればイエスさまの再臨の後(厳密には1000年王国の後)に来るものなので、今現在にいたるまで到来していない。

「神の国」=「天国」と考えるなら、イエスさまはウソをついたか、弟子たちの中に未だ生きている人がいるということになる。

しかし、恐らく弟子たちもイエスさまの言葉を誤解しており、彼らの多くがイエスさまの再臨は自分たちが生きている間に起こると考えていた。

② 変貌の山
しかし、その6日後にある出来事が起こる。

9:2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。
9:3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。
9:4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。

この高い山がどこだったのかはわからない。
しかし、この山の上で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、イエスさまの姿が変わり、エリヤとモーセが現れてイエスさまと話すという不思議な光景を目撃した。

エリヤとモーセは旧約時代の人々であり、この時代には存在していない。
だとすれば、これはまさに天国の光景であり、「死ぬ前に天国が到来するのを見る」という意味では、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人は神の国の到来を目撃したと言えるだろう。
しかしこの出来事は、幻のようにその場だけのもので、その光景はすぐに消えてしまった。

さて、この時イエスさまは、エリヤとモーセとどんな話をしていたのか?
ルカの福音書にはどの時のことが描かれている。

ルカ9:30 そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、
9:31 栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。

ここで「最期」と訳されている言葉はギリシア語でExodosといい、「出エジプト」を表す言葉でもある。
ここでイエスさまたちが話していたのは、イエスさまがエルサレムで十字架にかかり死と復活を経験することであり、それは霊的な出エジプト――つまり罪の奴隷状態からの解放だということも意味している。

弟子たちは、自分たちが経験していることが何なのか、わからなくて混乱してしまった。
しかし、この時の出来事は強烈な印象として、彼らの心に刻まれていた。
ペテロは後に、自らの手紙の中でもこの出来事について書いている。

2ペテロ 1:16 私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。
1:17 この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
1:18 私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。

③ 神の国の到来
では、「神の国が力をもって到来している」のを見たのは、この3人だけだったのか?
この3人以外の弟子たちも、別の機会に、別の形で神の国の到来を体験している。
それはペンテコステの時に起こった出来事である。

神の国とは、神さまの支配が及ぶところ。
神さまの力が現れるところ。
神さまによる御業が起こり、神さまの栄光が称えられるところである。

神の国はイエスさまとともにあった。
しかしペンテコステの日、イエスさまの弟子たちの上に聖霊が降り、今度は弟子たちを通して神の国の表れが示されるようになった。

現代に生きる私たちも、聖霊の満たしを通して神の国が力をもっての到来しているのを体験している。
私たちは今、イエスさまとともに歩み、神の国が私たちとともにある。
私たちはそのことを信じながら、神の国を伝え、神の国を広げていくことができる。
それこそ、私たちに与えられている使命であり、喜びである。