2サムエル16:5-14 『呪いに代えて善を報いて下さる神様』 2020/12/13 小西孝蔵

2020年12月13日「呪いに代えて善を報いて下さる神」
―わが子に追われたダビデの逃避行―
サムエル記下16章
「6:5ダビデ王がバホリムにきた時、サウルの家の一族の者がひとりそこから出てきた。その名をシメイといい、ゲラの子である。彼は出てきながら絶えずのろった。 16:6そして彼はダビデとダビデ王のもろもろの家来に向かって石を投げた。その時、民と勇士たちはみな王の左右にいた。 16:7シメイはのろう時にこう言った、「血を流す人よ、よこしまな人よ、立ち去れ、立ち去れ。 16:8あなたが代って王となったサウルの家の血をすべて主があなたに報いられたのだ。主は王国をあなたの子アブサロムの手に渡された。見よ、あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」。 ・・・・・・・ 16:11ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。 16:12主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない」。 16:13こうしてダビデとその従者たちとは道を行ったが、シメイはダビデに並んで向かいの山の中腹を行き、行きながらのろい、また彼に向かって石や、ちりを投げつけた。 16:14王および共にいる民はみな疲れてヨルダンに着き、彼はその所で息をついだ。」

サムエル記下18章 「8:33王はひじょうに悲しみ、門の上のへやに上って泣いた。彼は行きながらこのように言った、「わが子アブサロムよ。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代って死ねばよかったのに。アブサロム、わが子よ、わが子よ」。」

サムエル記下22章
「2:47主は生きておられる。わが岩はほむべきかな。わが神、わが救の岩はあがむべきかな」

ルカによる福音書6章
「6:28のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。 6:29あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。 ・・・・ 6:31人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」

ルカによる福音書23章
「23:33されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。 23:34そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。 」

コロサイ人への手紙3章
「:12だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。 3:13・・・主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。 3:14これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。 3:15・・・あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。」

1.初めに

コロナ感染第3波で、医療現場の方々をはじめエセンシャルワーカーとされる人たちは厳しい環境にある。コロナ禍でお店の従業員がお客から暴言を浴びせられるケースが頻発していることが最近のニュースで取り上げられている。同じエッセンシャルワーカ―とされる廃棄物処理業者の社員で、先週のNHK番組「プロフェッシャナル」で取り上げられた方も、通りすがりの人から「くせーな」と軽蔑され、ののしられた。一時、やる気を失っていたが、逆境を乗り越えて、仕事への意気込みをとりもどし、きれいな街を取りもどすことに情熱を傾ける姿に感動。
(本日の聖書箇所朗読)(祈り)

2.前回からのあらすじ

・今回は、ダビデシリーズ第4回目。前回は、バテシバ事件を取り上げた。ダビデは、神に忠実なイスラエルの英雄のイメージがあるが、罪を犯しやすい弱い人間でもある。人間ダビデの最も弱いところは、女性問題。人妻バテシバを無理やり奪う、しかも夫を戦場に追いやって殺すというひどい行動は、預言者ナタンに弾劾されて、悔い改め、神から許されるが、当時の習慣とはいえ、ダビデが何人もの妻を持ち、その複雑な女性関係が、息子たちの争いた反乱につながることになったと考えられる。

・長男のアムノンは、異母兄弟である次男のアブサロムの妹タマルに一方的な恋心を抱き、部屋に誘い込んで辱め、彼女と寝た。彼女は、ショックで兄のところに引きこもることになった。その時、ダビデは、怒りはしたが、何もしなかった。(パワポ資料-家族関係)

・アブシャロムは、憎しみを押さえきれず、2年後、アムノンを暗殺する。アブシャロムは、エルサレムから逃げて2年間隠遁したが、その間もダビデは、何もしなかった。

・ダビデの甥で、参謀のヨアブが見かねて、アブシャロムをエルサレムに呼び寄せるが、ダビデは、アブシャロムを自分の家に引きこもらせたままで会おうとしなかった。アブシャロムと3回も向き合うチャンスがあったのに、3回とも何もしなかった。なぜか? 後で理由を探ってみよう。

・その結果、ついに、アブシャロムは、父ダビデに反逆、クーデターを企てる。ダビデは、家族や
部下たちと共に、10人の側女は残したまま、エルサレムから、泣きながらオリーブ山を登って逃避行に出た。さぞかし無念であったろう。サウル王に命を狙われてイスラエルの各地を転々と逃げ回った逃避行から2回目の逃避行が本日の場面。(パワポ資料-地図)

3.本日の箇所

サムエル記下16章
16:5ダビデ王がバホリムにきた時、サウルの家の一族の者がひとりそこから出てきた。その名をシメイといい、ゲラの子である。彼は出てきながら絶えずのろった。
オリーブ山の近くで、エリコに向かう途中にバホリムというところに、亡くなったサウルの一族であるシメイ(シムイ)という男がダビデに呪いの言葉を投げかけて石を投げつけた。そして「16:7シメイはのろう時にこう言った、「血を流す人よ、よこしまな人よ、立ち去れ、立ち去れ。・・・・主は王国をあなたの子アブサロムの手に渡された。見よ、あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」

・ダビデの甥で軍司令官のヨアブの兄弟、アビシャイがシメイの態度に憤慨して、復讐するようにダビデに勧めるが、ダビデは、裁きを主に委ねて、押しとどめた。
「6:11ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。 16:12主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない」。

・この言葉を、本日のタイトルにしている。新改訳では、「しあわせ」と訳されているが、口語訳の「善」(King James訳では、“good”)。相手から、ののしられても、無視されても、すべてを主に委ねて進めば、先が開ける、そのお手本となるのがダビデ。
「16:13こうしてダビデとその従者たちとは道を行ったが、シメイはダビデに並んで向かいの山の中腹を行き、行きながらのろい、また彼に向かって石や、ちりを投げつけた。

・ダビデは、フシャイというスパイを追撃しようとするアブシャロムのところに忍びこませて、時間稼ぎをしているすきに、追手の目をくらませて、全員エリコからヨルダン川を越えて逃れた。

4.本日の箇所でダビデから学ぶこと

1)問題から逃げない

・ダビデの弱さは、女性問題だけでなく、子供に対しても、悪いことは悪いとして毅然とした態度を示さなかったため、兄弟間や親子間の決裂や殺害という悲劇を生んでしまった。息子の非行に対して問題に向き合うチャンスが3回もあったにもかかわらず、人間的な優しさや子どもへの甘さからか、神の目にかなった正しい判断ができなかった。

・ダビデは、神様に忠実な僕であったが、妻や子供に対しては、言うべきことも言わないで、問題の解決を先延ばしにし、不正も見過ごすという「不作為」の罪を犯した。
私たちも同じようなことをしてはいないでしょうか。特に、子供の教育やしつけは、難しい問題で、自分自身もどこまで厳しくするのか。愛をもって接するのが基本ではあるが、どの家庭でも直面する問題でしょう。私もこれまで父親として、息子、娘にきちんと向き合ったかどうか自信がない。母親任せ? 娘から「お父さんは、子どもそのものよりも、子供の概念が好き」だと冷やかされる。

2)裁きは、神様に委ねる

・ダビデは、アブサロムの反逆やシメイからの迫害に対して、自分から復讐することなく、すべてを神の裁きに委ねた。後に、形勢が逆転し、マハナイムというところで、反逆したアブシャロムがヨアブによって殺された。(パワポ資料、地図) このニュースを聞いたとき、ダビデは、こう叫んだ。「わが子アブサロムよ。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代って死ねばよかったのに。アブサロム、わが子よ、わが子よ」。(サムエル記下18章33節)
・ダビデは、人としては弱さをかかえながらも、神の僕として忠実に仕えた。その姿は、ダビデの子孫であるキリストの十字架における姿を予見させるものが感じられる。

・イエスは、山上の垂訓の中で、民衆にこう語っておられる。「6:28のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。 6:29あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。 ・・・・ 6:31人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」(ルカ6章)。そして十字架上で、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ23:34)

・ダビデは、度重なる反逆や暗殺の企てから、守られ、ついにイスラエルの統一国家を樹立した。裁きを神に委ねることによって、「逆転の人生」を歩むことが出来た。
・神は、万事相働きて、益と変えて下さる。冒頭でご紹介した、ごみ処理業者の男性スタッフも世間からの暴言に対して、腐ることなく、善をもって悪に勝ったお手本と考えられる。

・私の拙い30数年にわたるサラリーマンの経験でも、多くの場合上司に恵まれたが、ある時期、上司の上司にあたる先輩から、仕事のやり方など気に食わないことがあり、数年にわたってパワハラ的な仕打ちを受けたことがあった。その時はつらい思いをしたが、裁きは、神に委ねなさい、汝の敵をも愛しなさいというイエスの言葉が慰めになった。神様は、私を捨て置かれず、相手の呪いから救い出してくださった。
・私たちは、クリスチャンというだけで、迫害は受けないかもしれないが、仲間から違和感を持たれ、疎外感をいだかれたり、仲間外れになるかも。でも、人から自分がどう思われるかは、神様に委ねて、むしろ、目の前のなすべきこと、「善」を行うことが大事。

3)神の愛と感謝に満たされて
・ダビデは、常に感謝の心をもって神を賛美した。サウルやすべての敵から救い出してくださった神に対する感謝の賛美が、サムエル記下22章(同じ内容の詩編18篇)でこう謳われている。「2:47主は生きておられる。わが岩はほむべきかな。わが神、わが救の岩はあがむべきかな」
・キリストの十字架上の贖罪と復活によって、呪いや憎しみに代えて、神様の愛が聖霊の働きを通して私たちの心を支配してくださる。人を赦すだけでなく、人を愛する力、善を行う力を与えて下さる。クリスマスは、まさに、この神の愛を示すために来られたひとり子イエスキリストをお祝いする日ですね。
・1年前の12月4日にアフガンで住民のために医療のみならず、灌漑用水の開発に全力を投入して暗殺された中村哲さんの生き方も、大国の介入により引き起こされた憎しみや戦乱の中で、神の愛、キリストの愛を実践するものであった。(詳しくは、キリスト教愛真高校での講演録参照)。私がお手伝いさせて頂いているワールド・ビジョンのスタッフの皆さんもこうした生き方を目指している。

・ユダヤ人、異邦人の間でいがみ合いや分裂が起こる中、パウロは、キリストに在る赦し合い、愛しあうことの重要性を強調した。デボーションの愛読書である内村鑑三の「一日一生」の丁度12月14日の聖書箇所が、コロサイ人への手紙3章12節~15節でした。

「12だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。 3:13・・・主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。 3:14これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。3:15・・・あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。」

・今日、コロナの影響もあって、私たちの周りで、人を攻撃したり、傷つけたりする風潮が広まっている中、ダビデが指し示しているように、キリストの心をわが心として、裁きは、主の委ね、常に感謝を忘れず、キリストの愛を日々実践していくものとなるよう、祈っていきたい。

(祈り)