マルコ9:9-13 ㊴『地上に降りた神の栄光』 2020/12/20 けんたろ牧師

マルコ 9:9-13
9:9 さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。
9:10 彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。
9:11 また弟子たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」
9:12 イエスは彼らに言われた。「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。
9:13 わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」

ペテロとヤコブ、ヨハネの前で、イエスさまは姿を変えた。

マルコ 9:2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。
9:3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。
9:4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。

その時、弟子たちが目にしたのは、本来のイエスさまの姿である。
イエスさまは本来神の子であり、三位一体の神さまご自身でもある。

① 本来のイエスさま
「イエスさまは新約から」と思いがちだが、イエスさまは旧約聖書にもたくさん登場している。

創世記の中では、サレムの王としてアブラハムを祝福し、御使いとして現れてソドムとゴモラの裁きについて話した。
その後も、契約の箱の上にその臨在を表し、神の軍の将としてイスラエルのために働いた。
イエスさまは、「ナザレのイエス」という人として生まれてくる前にも、さまざまな形で人々と関わり続けていた。
福音書を記したヨハネは、神としてのイエスさまはこのように表現している。

ヨハネ 1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

② 地上に降りた栄光
ペテロ、ヤコブ、ヨハネがそんなイエスさまを視たのはほんのわずかな時間のことで、気が付けばエリヤとモーセは姿を消し、元通りのイエスさまがそこにいた。
光り輝く栄光の姿だったイエスさまが、その光を脱ぎ捨て、私たちと同じところに来てくださった。

その始まりは、宮廷どころか普通の宿屋にも居場所がなく、家畜小屋で生まれ、飼い葉おけをベッドとした。
生まれて間もなく、ヘロデ王にいのちを狙われ、両親はエジプトまで逃亡した。
ナザレという片田舎で大工の家のせがれとして生きた。
全ての創造主であり、権威と力を持った神は、小さな者となって、私たちとともに生きてくださった。

私たちと視線を同じにするため、私たちと同じ人として生き、その痛みと苦しみの全てを経験してくださったのである。
そのことを感謝し、祝うのがクリスマスである。

③ 光を指し示す者となる
聖書には、救い主の前にまずエリヤが来ると預言されている。
ここで表されているエリヤとは、イエスさまの前に来て悔い改めを説き、ヘロデ王に殺されたバプテスマのヨハネである。

ヨハネは当時有名人であり、殺されたことを多くの人々が嘆いたが、その人生の目的は救い主を指し示すことに費やされた。
自分のためではなく、人のため、そして神の目的のために生きた人だった。

私たちにも、それぞれに役割が与えられている。
その時私たちは、自分が輝く以上に、イエスさまを指し示すものでありたい。

空の星が、東の博士たちにイエスさまの存在を教えた。
み使いが、羊飼いたちに救い主が生まれたことを知らせた。
私たちもまた、知らせるものとなろう。
イエスさまを知らない人たちが、この世界にはたくさんいる。
「彼らがキリスト教を信じるように」ではなく、「彼らがイエスさまと出会えるように」。
私たちにできるのは、光となることではなく、光を指し示すことだから。

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