マルコ9:14-29 ㊵『信じるとは」 2020/12/27 けんたろ牧師
マルコ 9:14-29
9:14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
9:15 群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
9:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
9:17 すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
9:18 その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
9:19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
9:21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
9:26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
9:28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人がイエスさまとともに山から降りてくると、残った弟子たちは律法学者たちと議論をしているところだった。
残された弟子たちは、実は大変な状況に直面していたのである。
イエスさまの姿が変わって、モーセやエリヤとともに話すのを目撃していたころ、残された弟子たちのもとに、悪霊につかれた息子を連れた人が、癒しを求めて訪れていた。
イエスさまがいなかったので、弟子たちが代わりに癒そうとしたが、彼らでは悪霊を追い出すことができなかった。
その出来事は、イエスさまを攻撃しようとしていた律法学者たちの格好の的となった。
① 不信仰な時代
そのことを聞いたイエスさまは、このような言葉をもらした。
9:19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
イエスさまはなぜ、このように厳しく言われたのだろうか?
イエスさまの憤りの原因はどこにあったのか?
第一にそれは、人が「癒されるか、癒されないか」ということにばかり目を向けて、奇跡が起こらない限り信じようとしないから。
第二に、そこには「癒されない」と決めつけている人々の不信仰があったからである。
イエスさまとしては、「癒し」という表面的な現象ではなく、本質的な事を伝えたかった。
しかし、人々はいつまで経っても、目の前のニーズが満たされることから卒業できない。
今も、多くのクリスチャンが表面的な必要が満たされることばかり願い、本質的なところに目を向けられないでいるのではないだろうか?
本質的な問題が解決すれば、表面的な問題などどうにでもなる。
私たちはまず、神さまとの関係の修復という、本質的な問題と向き合い、取り組まなければならないはずだ。
② 癒されなかった理由
なぜ、この悪霊につかれた息子を癒すことができなかったのだろう?
その理由は二つある。
一つは、父の不信仰。
そのことを明らかにするために、イエスさまは父親と話し始めた。
9:21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
父親が助けを求めていたことは確かだった。
しかし、彼の中には「イエスさまになら癒すことができる」という信仰はなかった。
「できるなら癒して欲しい。でも、どうせ無理でしょう?」という思いがあった。
そのことを見抜いて、イエスさまは言う。
9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
そうしてイエスさまが悪霊を叱りつけると、悪霊はあっさりと息子から出ていった。
私たちは、本当にイエスさまを信じているだろうか?
「イエスさまがともにいてくださるなら大丈夫だ」と心から信じているだろうか?
「神さまでもムリだろう」という不信仰はないだろうか?
信じる心が試されている。
しかし信じるなら、必ず与えられる。
③ 自分の力ではなく
息子が癒されなかったもう一つの原因は、弟子たちにあった。
自分たちには悪霊を追い出せなかったのはなぜか、弟子たちがイエスさまに尋ねると、イエスさまはこのように答えた。
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
弟子たちは、祈りによらず問題を解決しようとしていたことをイエスさまは見抜かれた。
「祈る」とは、ただ祈りの言葉を唱えたり、態勢をとることではない。
自分の力に寄らず、神さまの力によって問題と向き合うことを意味している。
つまり弟子たちは、自分に力で悪霊を追い出そうとしていたのである。
自分の力に頼る限り、問題を本質的に解決することはできない。
祈りの中で神さまが働いてくださることを期待し、神さまが示すやることだけを置こうなうことが、私たちに求められていることである。
私たちが自分の力で問題を解決しようとし続ける限り、決して解決することができない問題がある。
私たちには、まず祈ることが求められているのである。
もちろん、祈るだけで何もしなくて良いという事でもない。
祈りの中で神さまが導くなら、私たちはそれに従って行動をする必要もあるのだ。