マルコ9:30-37 『十字架の道』 2021/01/03 けんたろ牧師

マルコ 9:30-37
9:30 さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
9:32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
9:33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
9:34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
9:35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
9:36 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
9:37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

私たちの教会はクロスロードという名前が付けられている。
それは交差点という意味のある言葉であると同時に、「十字架の道」を意味している。
「人生の交差点に立った時、十字架の道を選んで欲しい」という意味を込めて付けた名前。

イエスさまは十字架の道を選び、歩まれた。
弟子たちにもその道を歩むようにと教えているが、実際には多くの人々がそれとは正反対の道を進んでしまう。
私たちはどうだろう?
十字架の道がどのようなものかを確認してみよう。

① 人に知られたくないと思ったイエスさま
前回、子ども悪霊を追い出したイエスさまと弟子たちは、ガリラヤを通ってカペナウムに向かっていた。
イエスさまは、その時ガリラヤの人々に知られたくないと思っていた。

9:30 さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
9:32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。

なぜ知られたくないと思ったのか、そこには二つの理由があるように思う。
ひとつは、十字架にかかるときはまだ先のことだったから。
イエスさまの名まえはすでに多くの人々に知られるようになり、しかも律法学者たちやパリサイ派の人々からはすでに命を狙われ始めていた。

ふたつ目の理由は、弟子たちにもっといろいろ教える必要を感じたから。
弟子たちは、イエスさまの話を十分に理解することができていなかった。
「自分は殺されて3日後によみがえる」という話に混乱した。
イエスさまは、弟子たちに教える必要を感じていたのである。

弟子たちは、イエスさまのその言葉に不安を抱えながらも、追求することなく、何となくやり過ごそうとしていた。
福音には、意味が分からなかったり、目をそむけたくなる側面がある。
しかし、そここそが大切な部分でもある。

② 弟子たちが論じ合っていたこと
弟子たちの状態に危機感を覚えていたイエスさまは、カペナウムに来る間彼らが論じ合っていたことについて追及した。
イエスさまは、彼らが話していたことについて知っていて、そのことを聞いたのである。

9:33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
9:34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。

彼らが話していたのは、弟子たちの中で誰が一番偉いかということだった。
弟子たちが答えるのを渋ったのは、それが正しいことではないことに気づいていたから。

時として私たちも、本来最も大切な福音から目をそらして、見当違いの方向に向かっていることがある。
「誰が偉いか?」「誰が正しいか?」というキリスト教界の中でも起こりがちな議論は、福音の本質から遠く離れている話である。

③ 人に仕える
イエスさまは弟子たちを集め、福音に生きる十字架の道について教え始めた。

9:35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
9:36 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
9:37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

私たちにとって大切なのは、誰が偉いか、どれだけ仕えられるかではなく、私たちが人に仕えること。
私たちは、誰に仕えているだろうか?
人に仕えることを誇りとしているだろうか?

イエスさまは私たちに仕えるために地上に来て、私たちのためにいのちを投げ出した。
それがイエスさまの愛。
私たちも人に仕え、愛するものとして生きよう。

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