マルコ9:38-50 『ゲヘナに投げ込まれないために』 2021/01/17 けんたろ牧師

マルコ 9:38-50
9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
9:39 しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。
9:40 わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
9:41 まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。
9:42 また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。
9:43 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
9:44 【本節欠如】
9:45 もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
9:46 【本節欠如】
9:47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。
9:48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
9:49 人はみな、火によって塩気をつけられます。
9:50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」

イエスさまは、福音を人々に伝える活動を少し休んでまで、弟子たちに本質的なことを教える必要を感じた。
人々を自分の力で癒そうとし、弟子たちの中で偉いのは誰かという議論をするほどに、福音の本質からずれてしまっていたからである。

イエスさまが弟子たちに教えた話は、私たちにとっても有益なものである。
今回も、キリストの弟子となり、キリストの体として生きるとはどういうことなのか、一緒に考えていこう。

① 考えが違う人を切り離そうとする罪
ヨハネはイエスさまにこのような話をした。

「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」(マルコ9:38)

ほめてもらおうと思っていたのかもしれないが、それは福音の本質から大きく外れている。
私たちクリスチャンも、たくさんの教派を作り、自分の考えと違うものを排斥し、時には神の名のもとに相手の命さえ奪ってきた。
自分と考えが違う人をすぐに異端扱いする癖は、今もクリスチャンの中に根強く残っている。
しかしイエスさまは、このように言われた。

9:40 わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
9:41 まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。

自分と意見が違う人たちと、いつも一緒に過ごす必要はない。
しかし、考え方が違うからと言って相手を切り離し、「異端」として裁いて排斥することを、イエスさまは私たちに求めてはいない。
価値観が違い、ともに歩むことがなくても、それは与えられている役割の違いからくるものであって、どちらかが正しく、どちらかが間違えているからではない。
私たちが本当に求めるべきは、「正しい教え」以上に、「神さまとの正しい関係」である。

② つまずかせてはならない
イエスさまは、続けてこのように言っている。

9:42 また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。
9:43 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
9:45 もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
9:47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。

この言葉は、文脈と切り離されて、「罪を犯すより体の一部を切り離した方がいい」という解釈がされがち。
しかしこの言葉は前の話との繋がりで言われた言葉だということを忘れてはならない。

つまり、「あなたたちは自分と意見の違う人たちを自分から切り離そうとするが、そんなことをして彼らをつまずかせるくらいなら、いっそ自分が大切だと思っている部分を自ら切り離してしまいなさい」という話である。

③ ゲヘナの火
人をつまずかせるなら、ゲヘナに投げ込まれるとイエスさまは言われる。
ゲヘナとは、イスラエルの近くにあったゴミ捨て場である。
ゲヘナは、死後に投げ入れられる地獄のことだと、多くの場合は解釈される。
しかし、ゲヘナが必ずしも死後のさばきとして、与えられる罰のことだけを意味しないことを、この箇所は示唆しているように思う。
イエスさまは、このように話を続けている。

9:49 人はみな、火によって塩気をつけられます。
9:50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」

イエスさまは、私たちが世の中をきよめ、味気となる地の塩であると言っていますが、塩気は日によってつけられるものだとここで言っているのである。

火によって、金属は精錬され、きよめられていく。
同じように、私たちも炎のような痛みや苦しみの中で鍛えられ、きよめられ、人格が形成されていく。
私たちの心や魂を精錬する炎は激しく、そこを通ることはとても苦しい。
しかし、私たちは時として間違った道に進み、苦難の中を通ってしまうときがある。

それは、首に石臼を結び付けて海に沈められたり、手足を切り取り、目をえぐりだした方がましだと思えるような経験である。
そんな経験はしないで済めばそれに越したことはないだろう。
しかし、そのような苦難を通るのは、私たちが失格者となり、滅ぼされるためではない。
私たちは火を通して精錬され、きよめられ、もっと人を愛することができるようになる。
私たちが自ら塩気を保ち、互いに平和に過ごすことを通して、私たちはこの世界を変えていくのだ。

死後、天国に行くか地獄に行くかだけを気にする信仰生活には命がない。
私たちは今、神の心を知り、神とともに歩み、神の国を生きよう。