マルコ10:17-31 ㊺『すべてを捨てて』 2021/02/07 けんたろ牧師
マルコ 10:17-31
10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
10:20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
10:21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」
10:24 弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
10:27 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
10:28 ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」
10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、
10:30 今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」
神の国は、世の中で評価され、たくさんのものを持っている人間に与えられるものではなく、おさな子のように素直な心で受け取る人に与えられる。
私たちが神の国に入るためには、持っている全てのものを委ね、手放してでも神さまに訊き従うことが求められる。
たくさん持っているほど、私たちはそれを手放すことが難しくなる。
たくさん持っている人が神の国に入ることは難しい。
① すべてを捨てて
「神の国に入るためにはすべてを手放さなければならない」という話に反応したペテロは、イエスさまにこのように言った。
10:28 ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」
「私は手放していますよ?」と、自分で言ってしまうのはペテロの悪いところ。
しかし、事実ペテロたちは仕事を捨て、故郷に別れを告げてイエスさまに従う者となった。
イエスさまは、さまざまな機会で、神の国のためにすべてを手放すことについて話している。
マタイ 13:44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
ルカ 14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
恐い感じもするが、これは家族を憎めという話ではなく、家族であっても神よりも優先してしまうなら、神の国を見ることはできないという話。
私たちは自分自身や周りの人たちを優先にしてしまいがちだが、何にも増して神の国と神の義を求めることが求められている。
マタイ 6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
② 失うものは与えられる
10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、
10:30 今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
必ず失うわけではもちろんないが、イエスさまに従う者となるために、家や兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てなければならなかった人たちもいた。
当時、イエスさまの弟子として生きるということはそれほどのことを意味していたし、事実ペテロたちもそうだった。
そしてその覚悟は、私たちにも必要なものである。
しかし、私たちはそれを失うばかりではない。
私たちはそれを手放す時、さらなる祝福として与えられることになる。
それは何百倍もの祝福となり、しかも永遠のいのちの中で手にすることができる。
私たちは得ようとすればそれを失い、手放せば与えられるのである。
マル 8:35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
③ 先のものが後に
しかし、イエスさまはこのようにも付け加えている。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」
全てのものは、順番に与えられるわけではないし、多くを捧げた者が多くを得るわけでもない。
イエスさまのたとえ話のひとつに、5時から来た労働者の話がある。
早朝から働いていた労働者と、仕事が終わる直前から働き始めた労働者が、共に同じ報酬を得るという話だ。
不条理に聞こえるこの話だが、ここには働けない人にも等しく報酬を与えて下さる神さまの優しさが描かれている。
多くの報酬を得るために何かを捧げようとするなら、私たちはがっかりさせられることになるだろう。
先のものは後になり、後のものが先になることがあるからだ。
しかしそれでも、私たちが永遠のいのちとして得られる祝福には、私たちが全てのものを手放したとしても余りあるような得難い祝福がある。
私たちは、自分に与えられたものが誰に比べて大きいか小さいかということではなく、与えられている祝福そのものの大きさを喜ぶべきだ。
そして、捧げることができる祝福を喜び楽しもうではないか。