ヨハネ15:12-17 「神と人につながる生き方」 2021/02/14 小林拓馬

ヨハネの福音書15:12~17
12:わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの
戒めです。
13:人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14:わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15:わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知ら
ないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。
16:あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
17:あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

【導入】
▼最近、急激に話題になっている音声SNS「クラブハウス」とは?
・音声だけで「つながれる」アプリ
・急速に拡大している
・普段絡まない大御所同士のトークが気軽に聞ける、普段声を聞けない漫画家などのクロストー
クが聞けるのが魅力
・現段階ではiPhoneしかできない。Androidユーザーの妻は怒っている
・音声だけでも、「つながり」を体感できるアプリといえる

▼問題提起:「つながる」とは?
・コロナで急速に拡大した「つながる」カタチ。クリスチャンや教会は「礼拝」のあり方をもう
一度見つめ直す機会がやってきている
・オンラインで「礼拝」はできないのか? 「教会」は成立しないのか?
・「会う・集まる・つながる」とは何なのか考えてみよう!
【1:神と「つながる」】

▼SNSが急拡大するワケ
・人間は「関係性」を求める存在である、神は人を他者と「関わる」ように創造された
→人が1人でいるのは良くない
また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわ
しい助け手を造ろう」(創世記2:18)
→「人間」という文字は「人と人のあいだ」と書く
→800年前の神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世の実験
→人間には、人間関係の「つながり」を求める本質的な欲求がある。「つながる」ことで生きて
いる。SNSが拡大するのは、人間がソーシャルな存在だからである

▼神と「つながる」ために来てくださったのがイエス
・私たちクリスチャンは、もう一度立ち止まり、何を信頼しているのか考える必要がある
・イエスは何のために来たのか。それは罪によって神と断絶していた私たちが、イエスを信じる
ことによって、神様ご自身と「つながる」ためである
→神は私たちを愛するために、人の姿となり、そのイエスが死ぬことによって私たちに愛を示した
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、
神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)
→そして、私達に「聖霊」を遣わし、「いつまでも」ともにいてくださる
「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がい
つまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」(ヨハネの福音書14:16)
→私たちは今は主と完全には一緒にはいないものの、いつの日かお会いして、いつまでも共にい
るという希望を持っている
「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会
うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(1テサロニケ4:17)
・神は私たちと関係を持ってくださり、また聖霊を遣わし、いつまでも共にいてくださる

▼イエスとつながることが「実を結ぶ」カギ!
・もう一度、ヨハネ15:16を読んでみましょう
16:あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
・「実を結ぶ」とありますが、どのようにしたら、「実を結ぶ」ことができるのだろうか
・ヨハネ15章4~5節を読んでみよう
4:わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5:わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
(ヨハネ15:4~5)
・イエスにつながっていなければ、実を結べない
→逆に言えば、イエスにつながっていれば、「実を結ぶ」ことができる
→私たち人間は、主とつながる必要がある。そして、その接着剤はイエスである

▼どうしたら「神」とつながることができるのか
・聖書:聖書の言葉にもっと触れてみる
・神について語り合う:ディスカッションも礼拝の一部!(→ユダヤ人の礼拝の価値観)
・祈り:神と対話してみる(→デボラさんの大の字祈りの衝撃エピソード)
・神について考える:神に黙想を通して聞いてみる
・賛美:賛美の力は偉大(→今後の不安が吹き飛んだ)
・神のことを伝えてみる:アウトプットがインプットになる(→自分の体験談)
「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに
教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」
(コロサイ3:16)
【2:共に「つながる」】

▼聖書は私たちに「集まる」ように命じている
・では、神にさえつながっていれば、それで良いのだろうか
・神につながっていれば、この世から自らを隔離し、清く、正しく、美しく生きる。山にこもっ
てこの世と自分を隔離する、それが神が神を信じた人に望んでおられる生き方なのだろうか
・ヘブル10章にはこう書いてある
「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか」(ヘブル10:25)
→これは、フィジカルに集まればそれでいいとか、必ず日曜日に教会に来なければならないとい
う意味ではない。励まし合うために、人間関係を築くことが重要という意味である
→つまり、キーポイントは「人間関係を築けるかどうか」である
→「人間関係を築けるか」で見ると、実は日曜日の礼拝会に出席する「だけ」では十分ではない
かもしれない。「双方向」のやりとりが重要なのである

▼「教会」とは
・「教会」とは、イエスを主と告白する宣言のもとに集まる「人間関係」を指す
・ユダヤ教では10人集まらないと集会ではないと定義していたが、イエスはこう言っている
「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上
で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人
がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:19~20)
・1人ではなく、2人か3人。逆にいえば、そこに「関係性」があることが重要
→つまり、「イエスのもとに集まる人間関係」が重要なのである
・であるから、クラブハウスであろうが、ツイキャスであろうが、ZOOMであろうが何であろう
が、同じ時を共有し、人間関係を築くことができるなら、それはイエスのもとに集まる集まりで
あり、「教会」といえるだろうし、「礼拝会」は可能であろうと私は思う

▼実は神様も・・・
・こう言うと、必ず「顔と顔をあわせないと集まりにならない」とか、「聖餐式ができない」と
か「バプテスマができない」という意見が出てくる
→確かに、一部はそのとおり(聖餐式はできるけども・・・)バプテスマの式を遠隔はなかなか
難しい(笑)しかし大切なのは、水のバプテスマの式典よりも、その人が聖霊に満たされて生き
ていく「生き方」であると私は思う
・それに、ちょっと立ち止まって考えてみよう。私たちは、主を見たことはあるだろうか。主の
声を聞いたであろうか。主にさわったことがあろうか。主を味わったことがあろうか。主をかい
だことがあろうか
・ほとんどの場合は、いずれも経験がないだろう。聖書によると、主の顔を見たことがあるのは
モーセだけ。主の顔も見えないし、声も聞こえないのが普通。ZOOMより遠隔だよ!!!
・しかし、私たちはハッキリと主と「つながって」いる。それは神の愛、イエスの死と復活、そ
して聖霊の働きによるのである
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
・主は私たちにご自身の存在を示し、私たちが主につながるようにしてくださった
・であるならば、私たちは方法にこだわらずに、この社会と、人々と「つながる」を実践し、神
の愛を、福音を伝えようではないか
【3:互いに愛しあうの実践】

▼「互いに」がイエスの新しい命令
・ここでイエスの命令をふりかえってみよう
→ヨハネ15:12~17
・「互いに」というのがイエスの新しい教えのキーポイント。クリスチャン、教会はこれを実践し
ていく必要がある

▼どうやったら「互いに」ができる?
・相手と「つながる」人間関係が必要。wifiがつながっていなければネットにアクセスできない。
Bluetoothがつながっていなければ、音楽は聞けない
→まず人間関係が絶対に必要
→その上で、どうしたら「互いに愛し合う」を実践できるのか考える

▼適用:3つの「つながる」を実践してみよう
1:神様と「つながる」
2:信仰の家族と「つながる」
3:社会と「つながる」

▼「つながる」を実践できる場を考えてみよう
・1~3それぞれの場合で、どうやって「つながる」の考えてみよう
・少し時間をとって、チャットに書いてもらったりする

▼神様と「つながる」方法
・聞いてみる

▼信仰の家族と「つながる」方法
・聞いてみる

▼社会と「つながる」方法
・社会、特にイエスを信じていない人と「つながる」を実践してみよう
・聞いてみる

▼その上で、どうやったら、「互いに愛し合う」ことができるか考えてみよう
・実は私たちに「愛」はない
・先に読んだ聖書の言葉にはこう書いてある
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神
の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
・私たちに愛はない。しかし、神から「愛が注がれている」のである。まず愛を注いでくださる
神につながり、聖霊に満たされる必要がある。そうすれば、自ずとどう愛するかが見えてくる。
・方法は何でもいい。どんな方法でも、神様とつながり、人が互いにつながり、社会とつながり、
「互いに愛し合う」を実践していく。それが、「神の国」の実現につながる
「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の
国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言え
るようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」
(ルカ17:20~21)
・「神の国」は私たちの関係の中に存在するのだ

【まとめ】
1:まず神につながることが大切
2:そして人と互いにつながることが大切
3:つながった上で、神から注がれた愛で、聖霊の導きによって「互いに愛し合う」が実践できる
(おわり)