マルコ10:32-45 ㊻『いま求められているリーダー』 2021/02/21 けんたろ牧師
マルコ 10:32-45
10:32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
10:41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
今回の箇所は3つのセクションによって構成されている。
① エルサレムでイエスさまの身に起こること
第一は、イエスさまがこれから起こることについて話されたこと。
イエスさまたちはエルサレムに向かっていた。
それは、エスさまが十字架にかかる時が近づいていることを表していた。
そこに漂うただならぬ空気を感じ取ってか、弟子たちが恐れを抱いていることを感じ、イエスさまはこれからのことについて話された。
10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
弟子たちは、何が起こるかわからないから不安だったわけだが、イエスさまの話はその不安をさらに大きくするような内容だった。
これからイエスさまは捕らえられ、ムチで打たれ、殺されるという。
しかし、これほど明確にこれから起こることや、「三日後によみがえる」と話していたにも関わらず、弟子たちはイエスさまが十字架にかけられたときに絶望してしまった。
② わたしが飲む盃と、受けるバプテスマ
そんな折、ゼベダイの息子たちであるヤコブとヨハネがとんでもない話を持ち掛ける。
イエスさまが「栄光をお受けになるとき」は、イエスさまが王になる時だと誤解し、その時には自分たちを右大臣・左大臣にして欲しいと言い出したのである。
イエスさまの言葉をここまで理解していないことに驚かされるが、メシヤ=イスラエルの王だと考えていた当時のユダヤ人たちにとって、それは無理のないことだったのかもしれない。
そんな彼らに、イエスさまはこのように言う。
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
「わたしが飲む盃を飲み、わたしが受けるバプテスマを受ける」とは、イエスさまと同じように十字架を体験し、死んでよみがえるということ。
その意味を理解していない彼らは簡単に「できます」と答えた。
彼らは確かに、後になってイエスさまと同じように捕らえられ、殺されることになった。
そして、よみがえって永遠のときを神とともに過ごすことになるだろう。
しかし、イエスさまの右と左に座るかどうかはイエスさまが決めることではない。
イエスさまの十字架という王座の右と左につけられたのは二人の罪人たちだった。
その内の一人は、多くの人々と共にイエスさまを罵り、もう一人は「今日、私と共にパラダイスにいる」と言われた。
③ サーバントリーダーシップ
他の10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネの言葉を耳にして憤った。
彼らも同じことを望んでいたからである。
しかし、それは神の国のあり方とは根本的に違うものだった。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人は権力を求め、さまざまな力で他の人たちをコントロールしようとする。
しかし、私たちに求められているリーダーシップは、人の上に立って命令したり、管理したり、支配することではなく、人々に仕えること。
人を愛し、仕える姿勢を自ら示してロールモデルとして生き、周りの人たちがそのようになれるよう助け、導き、励ましていくようなリーダーシップ。
イエス様自身が、まさにそのようなリーダーだった。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
ところが教会は、幅広く大きな影響を人々に与えるために、イエスさまが示したリーダーシップを離れて、権威的な力をもって人々をコントロールするようになってしまった。
権力は人を堕落させ、争いを生み、人から考える力を奪っていく。
現代の教会も、そのような傾向を持ち続けているのではないだろうか?
私たちはイエスさまの方法に立ち返り、互いに仕え合う姿勢を取り戻す必要がある。
そうして、そのリーダーシップは、教会だけでなく、家庭や職場、近所の人たちとの関わりの中で実践されていくとき、福音は多くの人たちに届いていくのではないだろうか?
イエスさまからそれは始まっている。
まずは、そのバトンを、私たちが受け取ろう。