2サムエル24章 「主権を神に明け渡す」-ダビデの王国からメシアの王国へ― 2021/02/28 小西孝蔵

サムエル記下24章
 1さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。2王はともにいた軍の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、民を登録し、私に民の数を知らせよ。」・・・・・
  10 ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」 11 朝ダビデが起きると、主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。 12 「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしはあなたに三つのことを負わせる。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」13 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七 年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」なさい。」 14 ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」 15 主は、その朝から定められた時まで、イスラエルに疫病を下された。ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。1・・・・・・・
24 しかし王はアラウナに言った。「いや、私は代金を払って、あなたから買いたい。費用もかけずに、私の神、主に全焼のささげ物を献げたくはない。」そしてダビデは、打ち場と牛を銀五十シェケルで買った。 25 ダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。主が、この国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルへの主の罰は終わった。

〇詩編16篇8~9節(使徒言行録2章25~26節)
16:8わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。16:9このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。

〇詩編22篇
27 地の果てのすべての者が思い起こし主に帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。28 王権は主のもの。主は国々を統べ治めておられます。

〇詩編51篇
17 神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。

〇マタイ13章44節
44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。

〇Ⅱコリント6章20節
20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

1.初めに
コロナで、私たちのライフスタイルそのものを見直す時期に。社会的には、SDGSや環境問題への対応など。私自身、会議もオンライン化、懇親会の機会も激減、惰性で踏襲してきたことが取りやめになって助かった面も。主夫業に専念できる? 私たちが、何のために生きるのか、人生で大事なものは何かなど、神様から問いかけられている気がする。
(聖書朗読)(祈り)
2.これまでの経緯と背景
ダビデシリーズの5回目で、またかと思われるかも。でも、いよいよ最終回。表紙のダビデは、ソロモンの遺言を残す場面(パパポ名画)。英雄ダビデでなく、人間ダビデを取り上げてきた。バテシバ事件では、女性に弱い、アブサロム事件では、息子に何も言えない弱さをもつ。そして、今回は、権力を手にした時の心の弱さ。しかし、そうした弱さの中で神様に立ち帰ろうとする誠実さ、ダビデ家の子孫としてこの世に来られるメシアを指し示し続けるダビデの姿に惹かれる。サムエル記の最後の章は、次のソロモンへの世代へのバトンを渡すにあたって、そのようなダビデの生き方と信仰の姿で締めくくられている。

3.本日の箇所(サムエル下24章)

1)人口調査
①主は、「ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。」(24章1節)ダビデが、神の意志に反した人口調査を行って罪を感じたのが、神にそそのかされたと書かれているのは、どういうこと? バビロン捕囚後に編集された歴代誌21章には、サタンに誘惑されたとある。サムエル記が書かれた時代には、神がサタンに任されたことも、神が直接なされたかのような表現になったと考えられる。
②ダビデは、全土の人を派遣して軍隊の数を調べた。(パワポ地図参照)イスラエルの兵士80万人、ユダの兵士50万人。今でいう5年ごとのセンサス。なぜ、兵士の数を数えるのが悪いことなのか?私もかつてセンサスの実施を担当した経験もあるが、国の実態を把握するのは、為政者として当然のこと?問題は、その動機、目的にある。それまでのダビデは、戦いの力は、神に全面的に委ねて、自分は、主の戦いに参加しているという意識。しかし、この時のダビデは、統一国家を樹立した時に、自分の軍隊がどれほどのものか、確かめておきたかったのではないか。異民族との戦いに勝つための備えとしても。そもそも、王権は、本来神様に属するものであるはずなのに、自分のものであるかのように思い違えた。ダビデ自身、詩編の中で、王権は主のものと言っている。

 〇詩編22篇
27 地の果てのすべての者が思い起こし主に帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。28 王権は主のもの。主は国々を統べ治めておられます。

2)ダビデの悔い改め
ダビデは、人口調査を実行してから、悔い改めた。主は、預言者ガドを通して、ダビデを裁かれた。3つの裁き、7年間の飢饉、3か月の逃亡生活、3日間の疫病の3択が神から与えられる。ダビデは、主の御心を信じて、こう答えた。
「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。」(14節)
ダビデは、悔い改めれば、神様が憐みをもって赦し、最善の道を示してくださることを信じ、主の手にすべてを委ねた。神は、疫病を下され、7万人が死んだ。ダビデは、民が苦しんでいるのを見て、自分が身代わりになるように願って、とりなしの祈りを捧げた。ダビデは、悔い改めて、神様に立ち帰るという、素直な信仰の持ち主。バテシバ事件でも同様。

〇詩編51篇
17 神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。

3)主のために祭壇を築く
主は、預言者ガドを通じて、先住民族のエブス人であるアラウナから麦の打ち場(脱穀の場所)に、主のために祭壇を築くよう命じられた。ダビデは、神殿の建設場所を示された。ただ、神殿そのものは、自分では作れない、ソロモンにあとを任せるよう神に命ぜられていた。アラウナは、ダビデに無償で差し出そうとするが、ダビデは、頑として聞かず、あくまで対価を払って買い取ろうとする。何故、無償でもらってはいけなかったのか? ダビデには、神に感謝をささげる特別の場所として、受け止めたからと思われる。
というのは、この場所は、アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤ山で、「主の山に備えあり」(アドナイ・エレ)と呼ばれ、イスラエルの子孫の祝福が与えられた場所であった。(パワポ地図参照)そうした場所をただでもらうような場所ではないと感じたからではないか。ダビデにとっては、銀50シェケル(今のお金で100万円?)そんな大した額ではなかったようだが、値段のつけようがない大事な場所であったことは間違いない。
そして、これは、マタイにある畑に隠された宝物を示されたような気持にも似たものがあったのではなかろうか。

〇マタイ13章44節
「44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」

4.本日の箇所から学ぶこと

1)私たちの持ち物は、神様からの預かりもの。
ダビデが軍隊を神様の兵士でなく、自分の軍隊、自分の権力の行使として数えたように、私たちの、本来神様から恵みとして授かったものを自分の所有物、自分の手柄として握りしめていないだろうか?
会社であれば社長や重役ポスト、商売人であればお金、学者であれば著作や論文、政治家であれば大臣、国家公務員であれば事務次官や局長、女性であれば宝石?子どもの学歴?・・・。私自身も、現役時代、出世へのこだわりは捨てきれなかったのが正直。また、お金もあればあった方がいいという執着心も捨てきれない俗な人間と言わざるを得ない。
お金や地位、この世のものは、あくまで手段であって、それが自己目的と勘違いするところに問題がある。本来神様に主権があるのを自分に主権があると思いこむのが傲慢な罪。ヨブが、人間はすべて裸で生まれ、裸でかしこに帰っていく、主が与え、主がとられるのだ。主のみ名は、ほむべきかなという気持ちで過ごすことが出来れば最高。

2)主に立ち帰り、神と共に歩む
私たちは、ダビデのように弱い人間で、罪も犯しやすい。でも、試練や神様の警告を通して気づかされ、すぐに悔い改めて神様に立ち帰ることが大事。主権をお返しする。今回のコロナによる試練も神様からの御心ととらえたい。
有名なミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」を先週、久しぶりに見る機会があった。主人公テビエ(現在の俳優は市村正親)には、ユダヤ人迫害の試練をも神の御心と受け止める素朴なユダヤ教信徒の気持ちが表れている。
詩編には、ダビデの神と共に歩む平安と喜びが歌われている。弱さを認めつつ主を仰ぎ見る人間ダビデの姿を見るたびに、私自身、過去の失敗多き、罪深き自分の人生を思いおこし、神様の深い憐みに感謝する。使徒行伝でのペンテコステの直後、ペテロが詩編のダビデの言葉を引用しながら、聖霊が注がれることを証言している。ダビデが示したように、聖霊の働きによって、私たちは、主を心にお迎えし、安らぎと喜びを得る。

〇詩編16篇8~9節(使徒言行録2章25~26節)
16:8わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。16:9このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。

3)感謝の捧げもの
ダビデが神様に感謝のいけにえを捧げるため、対価を払って祭壇の場所を購入したように、私たちも神の国に入ることを約束していただいた感謝として、自分の大事にしているものを神様にお捧げする。それがお金や社会的地位にしても、自分の賜物や能力だとしても、主のために喜んで捧げることが求められている。自分の仕事を投げうって伝道者になるのも一つではあるが、各自が、自分に与えられた賜物を活用して、神の栄光のために、地の塩、世の光として、自分の持ち場で働くことが大事ではないか。
最近、キリスト教学生寮の財務担当理事の仕事をボランティアとして引き受けているが、大変ではあるものの、やりがいをもってお手伝いできるのは、感謝。会計の仕事をやっていて1円単位であった時の喜びは大きい。小事に忠実なものは、大事にも忠実であるという御言葉に励まされる。
偉大な作曲家バッハは、膨大な自筆譜面のすべてに、SDGSならぬ、もう一つの“SDG”をサインしたことは、有名なエピソード。ラテン語で“Soli Deo Gloria”(神にのみ栄光)。私もあの偉大なバッハ先生がSDGの為に人生を捧げられたことは大きな励みになる。本日は、ダビデの晩年、人口調査事件を通して、ダビデの人間的な弱さと、もう一度主権を神様にお返して、主に感謝をささげる姿を学びました。
最後に、神の栄光を現すことを常に心がけたパウロの次の言葉をもって終わります。

〇Ⅱコリント6章20節
「20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」

(祈り)