マルコ10:46-52 ㊼『求めるなら与えられる』 2021/03/07 けんたろ牧師

マルコ 10:46-52
10:46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
10:47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
10:48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
10:50 その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」
10:52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

イエスさま一行はさらに南下してエリコに来た。
エリコはヨシュアの時代から長い間廃墟となり、数百年後に再建された町。
そこでイエスさまたちは、ティマイの子バルティマイと出会う。

バルティマイは目が見えず、道の端に座っていたが、イエスさまが来たのを知って大声で叫び始めた。
この出来事を通して、私たちは神の国を求めることの大切さを知ることができる。

① 信じなければ求めることができない
大切なのは、まず求めること。
バルティマイは、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び求めた。

求めるためには信じる必要がある。
信じていなければ、イエスさまに求めることはない。
信じていることが、求めるものを変える。

バルティマイは、イエスさまがダビデの子=キリストであり、自分を顧みてくださると信じた。
しかも、何となく信じたというのではない。

10:48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。

人々が彼を黙らせようとしても、バルティマイはそれを払いのけて、ますます叫び求めた。
私たちは、バルティマイのように信じ、求めているだろうか?
周りの人たちにたしなめられたら失ってしまうくらいの信仰にはなっていないか?
私たちは、心から信じ、心から求める必要がある。

② 呼びかけに応答する
バルティマイの信じる心と求めに応えて、イエスさまは彼に目を向けた。
そして、イエスさまの元に来るよう、バルティマイに求めた。
周りの人々は、それをバルティマイに伝えた。
するとバルティマイは、上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエスさまの元に行った。

私たちがどれだけ求めても、イエスさまの招きに応答しないなら意味がない。
イエスさまが招いておられるのだから、私たちはすぐさま躍り上がってイエスさまの元に行くべきである。

バルティマイが上着を脱いだのは、イエスさまに敬意を表すためだろう。
でも、そこにはそれ以上の意味があったかもしれない。

エペソ 4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、
4:23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、
4:24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。

私たちは、イエスさまの呼びかけに応答し、すぐについて行く必要がある。
そのときには、私たちは古い自分を脱ぎ捨て、イエスさまとともに生きる新しいアイデンティティを着ることが求められる。

③ 目を開かれ、キリストについていく
招きに応答したバルティマイに、イエスさまはこのように問いかけた。

10:51 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」

「目が見えるように」求めるためには、自分は目が見えないという問題があることを認識している必要がある。
当たり前の話をしているようだけど、自分の問題がどこにあるのかを認識することは、時としてとても難しい。

私たちもまた、見えているつもりで肝心なものが見えていないということがあるのではないか?
イエスさまに、心の目を開いていただこう。

④ 信じるものが救われる

10:52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

「あなたの信仰があなたを救いました」とイエスさまは言った。
癒すのはイエスさまだが、私たちが信じ、求め、願うのでなければそれが与えられることはない。
私たちは心から信じ、求めているだろうか?
もう一度考えてみよう。

ローマ 10:11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。

そして、見えるようになったバルティマイは、イエスさまとともに歩み始めた。
私たちはどうするか?
求め、与えられたなら、与えて下さった方とともに歩み始めよう。