マルコ11:1-11 ㊽『主がお入り用なのです』 2021/03/14 けんたろ牧師

マルコ 11:1-11
11:1 さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。
11:2 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
11:3 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
11:4 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」
11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。
11:7 それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
11:8 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。
11:9 そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
11:10 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」
11:11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。

いよいよイエスさま一行はエルサレムへ。
オリーブ山はエルサレム近くにある山で、数時間もあればエルサレムに入れるような距離だった。
エルサレムへの入場を控え、イエスさまはその準備のためにもう一つやっておくべきことを弟子たちに命じる。

① ロバに乗って
それは、ロバを連れてくるということだった。

11:2 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
11:3 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
11:4 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」
11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。

イエスさまはなぜ、この時ロバを連れていくことにしたのか?
それは、予め預言されていたことだったから。

ゼカリヤ 9:9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。

戦争のときには馬を使う。
ろばは、平和と柔和のしるし。

② 主がお入り用なのです
ろばは、まだ誰も載せたことのない子ロバだった。
ヘブル文化では初子とか処女のように汚れのない状態を意味している。

とは言え、経験も薄く、力も弱い子ロバの、最初の働きは人類の救い主を背に乗せて運ぶということだった。
無価値で役に立たない状態だった
そんなロバに、救い主を乗せて運ぶという大きな栄光が与えられた。

私たちも、神さまの働き、イエスさまの働きのために招かれている。
無価値で役に立たないようであっても、「主がお入り用なのです」と声がかけられている。
私たちは、その声に応答しているだろうか?

自分はまだ小さいから、経験がないからと言ってしまっていないだろうか?
招かれているなら、私たちはその声に従って行動するべき。

こうして、イエスさまは子ロバにのってエルサレムに向かった。

③ ホサナ

11:8 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。
11:9 そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
11:10 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」

エルサレムに向かう数キロの道のりを、人々は上着を道に敷き、葉のついた枝を切って敷いた。
ヨハネの福音書に寄れば、この葉はしゅろの葉だということがわかる。
しゅろとはナツメヤシ。
これはへブル人の文化の中ではエデンの園の中央にあった「命の木」を表す木であり、神の祝福を象徴するシンボル。
イエスさまに敬意を表してした行動であり、王を迎えるレッドカーペットのようなもの。

人々が叫んだ「ホサナ」とは、「主をお救い下さい」という意味の言葉。
彼らが、イエスさまを救い主として迎え入れたことがわかる。

しかし、彼らが求めていた救い主とは、ユダヤをローマ帝国から解放し独立させる革命の救い主。
平和と柔和の象徴であるロバに乗ったイエスさまは、それとは正反対の印象だった。
それでも人々は、イエスさまに自分たちが思い描くような救い主増を押し付けた。

イエスさまは、当時のユダヤ人たちが求めていたような革命家ではなかった。
その期待が裏切られたと感じたため、人々はイエスさまを十字架のつけたのである。

私たちは、勝手な願望を神さまに押し付けてしまってはいないだろうか?
私たちの勝手な願いは裏切られる。
その時、求める心は一気に憎む心へと変わる。
私たちは自分の願望ではなく、神さまの心を優先にいなければならない。