マルコ11:12-21 ㊾『いちじくは枯れた』 2021/03/21 けんたろ牧師

マルコ 11:12-21
11:12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。
11:14 するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
11:15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
11:16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
11:17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
11:19 夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。
11:20 さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」

今日の話は、多くの人たちが理解に苦しむところ。

イチジクは夏に葉を成らせ、実がなり、秋には食べごろになる果物である。
一方、この時は過ぎ越し祭りが近いので、3月ころだったことがわかる。
つまりイエスさまは、実など成るはずもない3月にイチジクを探し、実がなっていないことに怒り出し、枯らせてしまったということになる。

ここだけ読むと、まるでわがままなイエスさまが癇癪を起して気を枯らせてしまったように見える。
イエスさまはなぜイチジクを呪い、枯らせてしまったのか?
これは、どのような意味がある出来事なのか?
実は、この話にはイスラエルに対する預言的で、象徴的な出来事が隠されている。

① イチジクが意味するもの
この話を理解するためにはまず、聖書の中でイチジクが何を意味しているかという知識が必要になる。
聖書には、イチジクのことが出てくる箇所がいくつかある。

エレミヤ 8:13 わたしは彼らを刈り入れたい。──【主】のことば──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。』」

ヨエル 1:7 それはわたしのぶどうの木を荒れすたらせ、わたしのいちじくの木を木っ端にした。これを丸裸に引きむき、投げ倒し、その枝々を真っ白にした。

これらの箇所をよく読むと、いちじくはイスラエルのことを表していることがわかる。
いちじくは、イスラエルという国を象徴している言葉なのである。

イエスさまがイチジクを枯らした出来事の裏にも、そこに起こった現象だけではなく、象徴が隠されている。

② 強盗の巣となった神の家
エルサレムは、過ぎ越し祭の喧騒に溢れていた。
過ぎ越し祭は、神さまがイスラエルを救ってくださったことを覚えて祝う日。
しかしその実態は、罪の赦しを象徴する生贄を商売道具とし、高い値段に売りつけ、それ以外では生贄を捧げることができないようにするという状況が起こっていた。
力を持つ人々が救いをコントロールし、貧しい人々、苦しんでいる人々には救いがないような扱いを受けていた。
イエスさまを怒り、屋台やいすをひっくり返した。
イエスさまの怒りの源はここにある。

11:17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

ときどき誤解されるように、金儲けをすることが悪いのではない。
救いを求めて来た人たちから金を巻き上げ、払えない人々から救いを奪った祭司や商人たちが問題なのである。
そのような強盗に、私たちはなっていないだろうか?
私たちは救いを金儲けの材料にし、ある人たちが救いを得られないような状況を作ってしまってはいないだろうか?
救いは誰でも得ることができるものであり、その機会を勝手に奪ってはならない。

③ イチジクは枯れた
一見賑やかで、イエスさまを主として迎え、救いの喜びにあふれるエルサレム。
しかし、その同じ人々が、数日後にはイエスさまを十字架にかけることをイエスさまは知っていた。
本当に求めているのは自分たちの繁栄であって、救いなどではなかったからだ。

その様子は、実を成らせるときではないのに葉が茂り、実を成らせているかのように見えるイチジクのようだった。
この時のイチジクは、まさに今のイスラエルの状態を表していたのである。
事実、この数十年後、イスラエルはローマ帝国によって滅ぼされることになる。

私たちの信仰はどうだろうか?
私たちも、この時のイスラエルのように、表面的には信仰を持ち、救いがあるように見せかけて、実態がないということはないだろうか?

信仰とは、教会に行くかどうか、献金をするかどうか、奉仕をしているかどうか、聖書を読んでいるかどうかという表面的なことで計れるものではない。
肝心なのは、私たちが心から神さまを見上げ、個人的な関係を持っているかどうかだ。

私たちには表面的なものしか見えないので、本当の関係を視ることはできない。
しかし、イエスさまの目には、それは一目瞭然のことである。
信じる力の強さが問題なのではない。
本当の関係がそこにあるかどうかだ。

ヨハネ 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

イエスさまは私たちを友と呼び、友である私たちのために命を捨てた。
私たちは、イエスさまの友となっただろうか?
心の内を確かめてみよう。