1コリント15:12-14 『2021年復活祭 いのちのありか』 2021/04/04 けんたろ牧師

第1コリント15:12-14
15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

2000年前、イエスさまが十字架にかかり、私たちのために命を捧げた。
しかしイエスさまは死んでから3日目によみがえった。
そのイエスさまの復活を祝うのが、復活祭。
ローマ帝国で行われていたイースターという春の祭りの日に、新しく生まれる命からイエスさまの復活を連想し、祝うようになったのが復活祭の始まり。
それはちょうど、ユダヤの過ぎ越し祭とも近く、イエスさまの復活があった日と近い日でもある。

今年の復活祭は、復活とは何だったのかということについて、改めて考えてみたい。

① 与えられていたいのち
復活について考えるためには、死について考える必要があり、死について考えるためには元々与えられていたいのちについて先に話しておく必要がある。

元々人は、目的をもって、神に似せられたものとして、しかも永遠のいのちを持った存在として創造された素晴らしい存在だった。
神に愛され、神を愛し、互いに愛し合って生きるものだった。
それぞれが個性を持ち、それに伴う使命や役割があり、それを果たすための才能が与えられていた。
一人一人が神を見上げ、互いを思い合うことで、この世界は素晴らしい世界だった。

聖書に描かれているいのちとは、私たちがただ生物的に生きることだけを意味していない。
ただ飲み食いし、あとはダラダラしているだけでも生物学的に生きることはできるかもしれないが、それだけで満足することはできない。
私たちは誰かの役に立ち、誰かにその存在を認められ、生きがいややりがいを感じなければ、生きている実感が伴わない存在なのではないだろうか?

いのちとは、ただ存在することではなく、生きる力そのものと言っていい。
そしてそれは、神とともにあるものなのだと聖書は教えている。

② 人は死んだものとなった
しかし、禁じられた善悪の知識の木を取って食べた時、人はそこにあった命の力を失った。
禁じられた期から取って食べることは、神に背き、神に等しい存在になろうとし、善悪を自分で決めることを意味していた。
その時、人は神から離れ、関係は壊れ、命の源であった神と断絶してしまったのである。

命の源から離れた人間は、生きていくことはできない。

創世記 3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」

「水35ℓ、炭素20kg、アンモニア4ℓ、石灰1.5kg、リン800g、塩分250g、硝石100g。イオウ80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素」によって人体は形成されていると言われる。
しかし、その物質を混ぜ合わせて組み立てても人間にはならない。
それを形作り、命を与えているのは神であり、神から
人は永遠の存在として創造されたが、霊的な死によって肉体も滅びるようになったというのが、聖書に描かれていること。

神から離れたことにより、私たちは生きる力の源から自らを切り離し、肉体的にも死んでいくものとなってしまったのである。

③ 復活が意味すること
イエス・キリストの復活は、どうしてそれほど大切なのか?
それは、そこに命があることの証明だから。
しかもそれは、一時的な蘇生ではない。
決して死ぬことのない永遠に生きるものとして、イエスさまは復活したのである。

そして、イエス・キリストの死と復活は、私たちが死ぬ存在となってしまったその時から約束されていた、私たちを救い出す約束の成就でもある。
私たちは、関係が壊れて見失ってしまっていた神という存在を、御子イエスによって知り、イエスと共に生きることによって、神との関係を回復させることができる。
そして、命の源である神がともにいるならば、私たちは永遠に生きるのである。

イエスはこのように言っている。

ヨハネ 10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。

大切なのは、私たちがこの永遠のいのちを受け取り、イエスと共に生きること。
命の源から、もう離れないこと。
イエスと共に生きるなら、私たちは決して滅びることはない。
それだけではなく、私たちは生きる力を取り戻し、喜びと力にあふれて生きることができるのである。

私たちは、イエスと共に生きているだろうか?
いつもイエスに聞き、従っているだろうか?
そこに喜びや、平和、希望、力はあるだろうか?
まだ手にしていないなら、イエスと共に歩み始めることで、今すぐ手にすることができる。
ただそれを受け入れ、イエスと対話し、従うだけだ。

見失ってしまったとしても、いつでもすぐにそこに立ち帰ることができる。
もし受け入れたかったら、今私と共に心を合わせて、神に語り掛けてみて欲しい。