マルコ11:27-33 51『権威はどこから?』 2021/04/11 けんたろ牧師

マルコ 11:27-33
11:27 彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、
11:28 こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」
11:29 イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。
11:30 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」
11:31 すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
11:32 だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
11:33 そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」

イエスさまたちが再度エルサレムに入ると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来てこう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」

① 何の権威をもって
彼らが何の話をしているかというと、この章の前半で起こった出来事についてである。
過ぎ越しの祭りの準備に賑わうエルサレムで、イエスさまが両替人たちの台や、ハトを売る人々の腰掛を倒したことについてである。

イエスさまが台やいすをひっくり返したのは、神を賛美し、過ぎ越しの祭りを祝っているように見えて、人々が自分たちの繁栄のことしか考えず、救いの道を狭くして、貧しい人々からお金を巻き上げていたからである。

イエスさまは、彼らが神殿を強盗の巣にしてしまったと嘆いている。
それはまさしく祭司や律法学者たちの利権のためだったので、彼らの中でもイエスさまへの怒りが燃え上がった。
こうして彼らは結託し、今イエスさまの元にやってきたのである。

彼らの問いは、「何の権威があってこのようなことをしたのか?」ということだった。
権威を持って、神殿でこのような商売をさせていたのは、まさにこの祭司長、律法学者、長老たちだったからである。
彼らにしてみれば、彼ら以上に権威を持ったものはなく、どこの馬の骨とも知れないイエスという男にはそんなことをする権威などないと思ったのである。

しかし、神殿は神がいる場所とされていたのだから、神の子であるイエスさま以上に、ここでの振る舞いを決めることができる日とは、他にいない。
イエスさまは、神ご自身の権威を持って「これらのこと」をしたのである。
そう考えると、彼らのこの言葉は的外れで滑稽な言葉だったことが分かる。

② イエスさまの返事
しかし、イエスさまはご自身の権威を振りかざさず、質問に対して質問で答えた。

11:29 イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。
11:30 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」

質問に対して質問で答えるのは、ラビたちがよくやる問答の方法。
こうして考える力を養い、真理へと導くのである。
イエスさまはヨハネが授けていたバプテスマは神さまの御心に適うものか、ヨハネが思い込みで勝手にやっていたことかを問うた。
バプテスマのヨハネを認めず、嫌っていた彼らには簡単に答えられそうな質問に思える。
しかし、彼らは答えることができなかった。

彼らは、ヨハネの権威も認めてはいなかった。
教えの内容よりも、問題はヨハネが彼ら以上に人々の人気を勝ち取ってしまったということである。
つまりバプテスマのヨハネは、彼らの権威を脅かす存在だったのである。

否定してきた立場上、ヨハネの権威が神からのものだとは言えない。
だからと言って、ヨハネはまるっきりウソだということもできなかった。
それは、ヨハネを支持する人々がたくさんいて、彼らからの評判を損ないたくなかったからである。
彼らの権威が神からのものだったら、彼らは人の評判を考える必要はなかっただろう。
つまり、彼らは神からの権威ではなく、人からの権威を求めていたのである。
彼らは「分かりません」と答えるしかなかった。

11:33 そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」

③ 神からの権威
私たちは、権威をどのように考えるだろうか?
クリスチャンであるなら、イエスさまの権威が神さまからのものであることに異論はないだろうと思う。
しかし、本当に神からの権威に信頼しているだろうか?
もっと目に見えてわかりやすい、祭司や学者の権威を優先してしまっていないだろうか?
あるいは、多くの人々の評判に頼ってしまってはいないだろうか?

僕を含め、牧師が言っていることを鵜呑みにしてしまってはいないか?
逆に、人の評判に判断をゆだねてしまってはいないだろうか?

神さまからの権威を信じて、それだけにより頼むことは簡単なことではない。
人による権威の方が分かりやすいから。
それでも、私たちは人ではなく神により頼む必要がある。
そのためには、私たちが聞く耳を持たなければならない。
また、判断するための知恵を持たなければならない。

神さまが何を求め、何をしようとしているのか?
何を嫌い、止めようとしているのか?
かつてパウロとシラスがベレヤという町で福音を伝えると、彼らはとても良い反応を示した。

使 17:11 この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

パウロやシラスが求めていた反応は、彼らの言葉をそのまま信じることではなく、それを聖書で確かめるということだった。
私たちは、ひとりひとりがそのようにして、聖書から判断できるようになる必要がある。
世の中で言われること、教会でささやかれること、牧師が告げたことがはてしてどのとおりかどうか、毎日聖書を調べてみよう。
そして、私たちは、神の導きに従って歩んでいこう。