マルコ12:1-12 52『見捨てられた石』 2021/04/25 けんたろ牧師

マルコ 12:1-12
12:1 それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。
12:3 ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。
12:4 そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。
12:5 また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
12:6 しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
12:7 すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』
12:8 そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
12:9 ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。
12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
12:11 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」
12:12 彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。

人生の中で大切にしているものは何だろう?
ある人は家族、ある人は仕事、成功することや、幸せに生きることと考えるかもしれない。
でも実は、それほど大切ではないもの大切だと思い、本当に大切なものを見失っているとしたらどうだろう?
仕事柄色んな人の話を聞く機会が多いが、物事が多くの人は自分の思い通りに進まないことを悩み、苦しんでいるように見える。
でもそれは、本当に大切なことではないのかもしれない。

2000年前、本当に大切なものを見失い、自分たちの願うものばかりを求めるユダヤ人たちにイエスさまが話したのが、今日の聖書箇所だった。
しかし、現代日本の感覚とはかなり違うので、解説が必要になるだろう。

① 殿様と農民
これは、農夫たちに土地を任せて遠出した地主の話しである。
江戸時代の農民と大名の関係に近い。
農民たちは畑を耕して収穫物で生活するが、年貢を納める義務があった。
ところが、殿様が優しいのを良いことに、農民たちは役人たちを追い返して年貢を納めようとしない。
殿様はさらに役人たちを送り込むが、農民たちはその役人を袋叩きにしたり、殺してしまったりした。

この話を聞いた当時の人々は、そんな優しい大名がいるものだろうかと驚きつつも、義務を果たさない農民たちを苦々しく思ったり、「殿様は農民たちになめられているんだ」と思ったことだろう。

ここで殿様は、思いもよらない行動に出る。
自分の息子をこの農民たちの元に送ったのである。
しかし、みんなが「若様」と呼んで慕うこの息子を、農民たちは無残に殺してしまった。
権力によって押さえつけられ、力で支配されることが当たり前だったこの時代の人々にとって、殿様の優しさにつけこんで義務を果たさないこの農民たちは愚かに写っただろう。
そしてこの後、この農民たちがどんな報復を受けるかということを想像すると、ゾッとしたに違いない。

しかしこれはまさしく、ユダヤ人たちがやってきたことだったのである。

② 神の子を受け入れなかった人々
ユダヤ人たちは、神の愛を伝える民として選ばれた民族だった。
その役目を果たすため、神は預言者やバプテスマのヨハネを送り、神に立ち返るようにと伝えてきたが、ユダヤ人たちは耳を傾けようとはせず、預言者たちを虐げ殺してきた。
それでも神はあきらめず、ついにひとり子を地上に送った。
その神のひとり子を、彼らは十字架にかけて殺してしまったのである。
それはまさに、これから起ころうとしているその出来事の預言だった。

ユダヤ人たちは、自分の生活や願望を優先して、神の言葉に耳を傾けてこなかった。
殿である神を退け、他の神を慕い、自分にとっては不都合な、耳の痛い話をする人々を虐げてきた。
それは、神の福音を受け取ろうとしない現代の日本人も同じことである。
私たちが現代の預言者となり、神の福音を人々に伝えても、人々は私たちを退け、虐げててきた。
神さまは、いつまでもそのままにされておくだろうか?

③ 要の石
自分自身のことについて考えてみたとき、このたとえ話はどのような意味を持つだろう?
クリスチャンは、確かにイエスさまを救い主として受け入れ、信じ、救いを手にした人々である。
しかしそんな私たちも、いつの間にかその重要さを忘れ、自分の願望を優先にして、神の言葉を蔑ろにしてしまってはいないだろうか?
それでは、選ばれた民だったユダヤ人たちと何の違いもないのではないか?

私たちが正しいと思っていること、大切だと思っていること、それは本当に正しく、大切なことだろうか?
私たちはいつの間にか神から預けられた人生を自分のものだと勘違いして、神の言葉、神の子イエスさまを蔑ろにしてはいないだろうか?

イエスさまはこのように言っている。

12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
12:11 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」

ここで言う「要の石」とは、アーチの一番上にはめ込まれる楔形の石のことである。
これがしっかりとはまっているから積み上げたアーチは崩れない、大切な役割を果たす石である。
この石はピッタリはまらなければならないため、加工が難しく熟練の技が必要だという。
「しかし、役に立たないと人々に捨てられたその石こそが、この世界のアーチを支える最も大切な要の石だったのだ」と、イエスさまは言うのである。

ここで言う要の石は、もちろんイエスさまのことを指している。
イエスさまの福音を受け入れようとしない人々は、この石を捨ててしまっている。
では私たちは、ちゃんとそれを人生のアーチにはめ込んでいるだろうか?

私たちの願い、表面的な幸せや満足が大切なのではなく、イエスさまこそが要の石だ。
その様に生きるために、私たちはもっと神の声に聞き、それに従って歩んでいく必要があるのかもしれない。