マルコ12:18-27 54『神は生きている人のための神』 2021/05/09 けんたろ牧師

マルコ 12:18-27
12:18 また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
12:19 「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』
12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。
12:21 次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。
12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」
12:24 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。
12:25 死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
12:26 死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」

前回のメッセージでは、パリサイ人とヘロデ党の人々がイエスさまの元に来た。
今回はサドカイ人たちがイエスさまの元を訪れている。

① サドカイ派の考え方
サドカイ派は貴族と祭司で構成されていたため、現状に満足している人たちがほとんどだった。
そのため、目に見えない霊的な世界を信じず、死後の復活についても否定していた。
ギリシャ(ヘレニズム)の文化の影響を受けていたため、世俗的な考え方も肯定的。
一方で、礼拝のような儀式的なことは大切にし、道徳として律法に信頼を置いている。
彼らにとって聖書とはモーセ五書であり、それ以外のものは聖書として認めようとしなかった。
そんなサドカイ人が、イエスさまに意地悪な質問をした。

12:19 「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』
12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。
12:21 次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。
12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」

この話を正しく理解するためには、当時ユダヤ人たちの間で浸透していたレビラート婚というシステムについて理解する必要がある。
これは未亡人を守るための精度で、夫が死んだ後も兄弟がいる場合には兄弟が妻として迎え、子孫を作らなければならないというルールである。
女性は遺産を相続することができなかったので、男子を産むことによって老後の財産が保証されたのである。
ここでは、7人兄弟が次々に死んでいって、妻が全ての兄弟と結婚した時、死後の世界では重婚という罪を犯すことになるではないかという矛盾をぶつけたのである。

② 生きている者の神
ここでもイエスさまの答えはシンプルだった。

12:24 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。
12:25 死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

神の子であるイエスさまにとって、復活した後の世界がどのようなものかを話すことは何の造作もないことである。
「見てきたようなこと」という言葉があるが、まさに「見てきたこと」なのである。
永遠の世界では、繁殖の必要はないので、結婚もないのは当然のことかもしれない。

続いてイエスさまは、モーセ五書しか認めないサドカイ人のために、出エジプトから、聖書が復活を肯定していることを証明して見せた。

12:26 死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」

アブラハム、イサク、ヤコブは、モーセの時代には何百年も昔に死んでしまったはずの人たちである。
しかし神さまは、今も彼らが生きているように、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗っている。
例え肉体は滅んでいても、神さまにとっては、彼らはまだ生きているのである。
私たちも神とともに生きるなら、永遠に神とともに生きる者となる。

③ 思い違いをしてはならない
サドカイ人たちの問題は、「思い違い」。
それは彼らが、自分たちの経験や常識の中でしか考えず、聖書も神の力も受け入れようとしなかったから。

私たちは、自分の経験や常識だけを手掛かりに聖書を読み、神を理解しようとするなら、思い違いをすることになる。
私たちの常識では計り知れない力が神さまにはあるのだから。

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」(Ⅰコリ 2:9)

と、聖書には書かれている。

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル 11:1)

という言葉もある。
私たちは自分の価値基準で神を計るのではなく、神の基準で自分自身の生き方を顧みる必要がある。
そして、私たちもまた神の前に生きた者とされたことを喜び、神との関係を楽しもう。