マルコ12:35-44 『神さまは見ている』 2021/05/23 けんたろ牧師

マルコ 12:35-44
12:35 イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。
12:36 ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』
12:37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。
12:38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
12:39 会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
12:40 また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」
12:41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
12:42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
12:44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

今日の箇所は、短いいくつかのトピックが重なっているので、ひとつひとつ話していく必要がある。

① 旧約聖書のキリスト

12:35 イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。
12:36 ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』
12:37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。

人々の中にあったキリスト理解は、ダビデの子孫として産まれて王となる、イスラエルの救い主だった。
人々がそのように信じる理由の一つは、律法学者たちが聖書の言葉からそのように教えていたからである。

しかしイエスさまは、詩篇110篇の言葉からキリストが単にダビデの子孫というだけではないことを説明している。
『主(神)は、私の主(キリスト)に言われた。「あなた(キリスト)は、わたし(神)の右の座についていなさい。わたし(神)があなた(キリスト)の敵をあなた(キリスト)の足代とするまで。」』

ダビデはキリスト預言の一つであるこの詩篇の中で、神のこともキリストのことも「主」と呼んでいる。
自分の子どもや子孫を「主」と呼ぶことはないので、キリストはダビデの子孫として産まれてくるけれども、それはダビデが「主」と呼びかけるような存在。
人(ダビデの子孫)として産まれてくるけれど、人を超えた存在。
大勢の人々が、その話を喜んで聞いていた。

② 律法学者たちの問題
続けてイエスさまは、律法学者たちの問題を明らかにしていく。

12:38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
12:39 会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
12:40 また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」

律法学者は多くの人たちから敬われる存在だったが、愛されてはいなかった。
律法学者たちの問題は、偽善とプライドである。
聖書の知識をひけらかし、それによって人々を裁き、自分は尊敬されることを求めていた。

相手よりも優位な立場に立って押さえつけることをマウンティングというが、聖書を使ったマウンティングはクリスチャンの中でよく見られる。
クリスチャン同士で自分の方が偉い・偉くないという主張をすることは何の意味もない。
私たちは等しく神に仕える者であり、互いに仕え合うものだからである。

③ やもめの信仰
イエスさまは、今度は律法学者とは対照的他立ち位置の人に目を留めた。

12:41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
12:42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
12:44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

レプタ銅貨というのは、今で言えば1円にも満たない額のコイン。
金持ちがたくさんの献金をする中で、レプタ銅貨2枚を捧げたやもめが評価されたのは、彼女が捧げたのが全財産だということをイエスさまは知っていたから。

金額や、目に見える価値によって判断するなら、このやもめが捧げたものは無に等しかっただろう。
しかし、神さまは私たちとは違う見方をする。
それは彼女が持っている「金額の割合」ですらなく、彼女が捧げた心だっただろう。
人はうわべを見るが、主は私たちの心を見るからである。

Iサムエル 16:7 【主】はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」

律法学者たちは、うわべでは人々に聖書を教え、よい行いをし、献金を捧げているように見えたけれども、彼らが求めていたのは他の人々からの評価だった。
しかし、本当に大切なのは人からどう思われるかではないとイエスさまは言う。
人がどう思っていたとしても、心から主に聞き、従うことが大切なのだ。

逆に言えば、誰も観ていないようで、神さまは必ず見てくださっている方。

詩篇 139:1 【主】よあなたは私を探り知っておられます。
139:2 あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。
139:3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前になんと【主】よあなたはそのすべてを知っておられます。

今は誰からも評価されなかったとしても、やがて私たちが天に帰る時、出迎えた主が「よくやった、よいしもべだ」と言ってくださったなら、私たちの今の苦労は全て報われるだろう。
そして私たちのあらゆる罪やけがれを知っていてさえも、私たちを愛し、受け入れてくださる方なのだ。