マルコ14:1-9 60『無駄か、良いものか』 2021/07/04 けんたろ牧師

マルコ 14:1-9
14:1 過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。
14:2 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。
14:3 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
14:6 すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
14:8 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
14:9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

過ぎ越しの祭りがあと二日と迫っていた。
これは、イエスさまが捕らえられる二日前だということを意味している。
イエスさまと弟子たちは、エルサレムの郊外、ベタニアという町で、ツァラアトに冒されたシモンという人の家にいた。
そこに、ある女が現れて、イエスさまにナルドの油を注いだというのが今日の話。

① ナルドの香油
ナルドの香油はとても高価なもので、一般の人の年収に相当する価値がある。
これは、通常結婚の時に使われるもので、娘が生まれると両親が少しずつお金を貯めて娘に与えるものである。
この香油は結婚式の時に使われるとともに、嫁入り道具でもある。
これを受け取る娘にとって、ナルドの香油は両親からの最高の贈り物であり、彼女たちの宝物なのである。

そんな高価な香油を、この女性はイエスさまに全部注いでしまった。
それを見て弟子たちは、「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と言って怒り、この女を厳しく責めたという。
300デナリはおよそ300万円だから、弟子たちの怒りもうなづける。
それだけのお金があれば、確かに多くの人たちの助けになっただろう。
しかしイエスさまは、そんな弟子たちをいさめ、彼女は良いことをしたのだから責めてはいけないと言った。
女はなぜ香油を注ぎ、イエスさまはなぜそれを受けたのだろうか?


この女がなぜ香油を注いだかという動機に関しては何も書かれていないので、それを推測することしかできない。
しかし、イエスさまの反応を見れば、それが良い動機からきたものだったことがわかる。
この女が見栄や、イエスさまの心を引くために高価なものを捧げたのであれば、イエスさまはそれをすぐに感じ取ったはずだから。

第一に彼女は、「自分にできることをした(14:8)」のである。
人々の罪を贖うために命を捧げるイエスさまに対して、私たちがお返しできるものなど何もない。
私たちには対価として支払うことが絶対にできないものを、イエスさまは代わりに贖ってくださったのだから。

第二に、彼女は自分が持っている最高のものを捧げた。
いらないものではなく、余ったものでもなく、彼女は真っ当な結婚式を行うために必要な香油を捧げた。
これは高価であるというだけではなく、彼女が自分の人生をもイエスさまのために捧げたことを意味している。

第三に、これはイエスさまの埋葬のための香油となった。
この後ほどなくして、イエスさまは捕らえられ、十字架に掛けられ、殺されて葬られることになった。
埋葬の時、遺体には香油が塗られるのが常だったが、この大量な香油は3日後にもそのまま香りを放っていたことだろう。

女が香油を注いだのは埋葬の目的ではなかったはずだが、それは絶妙なタイミングで美しい捧げものとなったのである。

③ ベタニヤのマリア
この時、イエスさまに香油を注いだ女とは、マルタやラザロの姉妹のマリアである。

ヨハネ 11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

300万円の無駄と言って、弟子たちから厳しく責められたマリアだったが、イエスさまはこのように言っている。

14:9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

事実、この出来事は4つの福音書全部に記されていて、多くの人々に語り継がれることとなった。
一見、無意味に思われるようなことでも、心を込めた最高のものを捧げるとき、神さまはそれを喜ばれ、用いられることがある。
私たちはどうだろうか?
私たちも心から、喜んで最高のものを捧げたいものである。