マルコ14:27-42 62『弟子たちのつまずき』 2021/07/18 けんたろ牧師

マルコ 14:27-42
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。
14:28 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
14:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
14:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。
14:32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
14:35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
14:37 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
14:38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
14:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
14:40 そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
14:42 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

過ぎ越しの日の祭りの中、初めての聖餐式が行われ、そこで弟子たちの結束が強められた。
しかし同時に、そこには裏切り者がいることが明らかにされた。
弟子たちは口々に、「まさか私ではないでしょう」とイエスさまに尋ねた。
そこで表されていた「裏切り者」はイスカリオテのユダひとりである。
しかし、裏切らない弟子たちには問題がないというわけではなかった。

① みなつまずく

14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。

「つまずく」というのは、挫折すること。
この場合は、みんなイエスさまを信じる心を失い、信仰的に挫折することを意味している。

ユダがイエスさまを裏切った理由と、他の弟子たちがイエスさまにつまずいた理由は同じ。
イエスさまが、自分の思った救い主とは違ったからである。
他の弟子たちがイエスさまを売らなかったからそれでいいかと言えば、もちろんそうではない。根っこは同じなのである。

弟子たちは口々に、「私はつまずいたりしない。死んでもあなたと一緒に行きます」と言ったけれど、結局は「イエスなど知らない」と言うことになった。

つまずくことがあるなら、それは私たちが自分勝手な救い主を想像しているから。
私たちの願望をかなえてもらうことではなく、神の御心を求めるべき。
神さまの心に勝るものはない。

② ゲツセマネの祈り
その後、イエスさまと弟子たちはゲツセマネという場所に来た。
ゲツセマネはエルサレム近郊のオリーブ山という丘のふもとにある園。
イエスさまが祈ることが目的。
弟子たちに何かを教えるとか、トレーニングではなく、イエスさまが自分のために行動した珍しいパターン。
イエスさまは、これから裏切られ、捕らえられ、十字架にかけられて殺される苦悩に向き合うために、ゲツセマネで祈る必要を感じた。
そして、弟子たちにもイエスさまのために目を覚まして祈るように頼んだ。
しかし弟子たちは、眠気に襲われて眠ってしまった。

14:38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

イエスさまのこの言葉が、この時の弟子たちの状況を表している。
弟子たちはここに来る前に、「私は絶対につまずいたりしない」と言っていた。
その思いは素晴らしいし、確かに霊が燃えていたかもしれないけれど、人の肉は弱いもの。
本能的な眠気、恐れなどに勝つことがいかに難しいことか。
これが現実なのである。

私たちも、理想に燃え、「このようでありたい」ということはあるだろう。
神の御心に従うという霊的に熱い思いも持つかもしれない。
しかし、霊は燃えていても肉は弱いものなのだ。
だからイエスさまは予め言っていた。

14:28 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

イエスさまは十字架にかかり、私たちの罪を贖う必要があった。
イエスさまはその現実に立ち向かい、十字架で死に、よみがえった。
その時イエスさまは、「ガリラヤで待っている」と約束した。
なぜガリラヤなのか?
それは、イエスさまや弟子たちにとって、出発点がガリラヤだったからである。
「あなたたちはつまずき、失敗するけれど、またやり直せばいい」とイエスさまは言ってくださっているのである。
私たちにとって、それはどれほど大きな慰めの言葉となるだろう。

③ イエスさまの祈り
弟子たちは当てにできず、とりなしすら満足にできず、その場で眠ってしまった。
しかしイエスさまは、それでも覚悟を固め、主の道を歩む決心をした。
イエスさまのこの祈りから学ぶべき部分が大きい。

14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

私たちの前には取り除いて欲しい苦難、困難がある。
でも、それが主の計画であるならば、私たちはそれを受け取り、呑み込む必要がある。
私たちに求められているのはこのような祈りである。

「このようにしてください」ではなく、「あなたは何でもおできなります。このようにしてください。でも、私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

私たちの願いが叶うところではなく、神の御心が実現するところに本当に幸いはある。
私たちはもう一度それを思い出す必要がある。
私たちの願いはたくさんあるけれど、それにも増して、神さまの御心が表わされるように願っているだろうか?
そうでないならば、私たちは必ずつまずくことになるのだ。

箴言 19:21 人の心には多くの思いがある。しかし、【主】の計画こそが実現する。

マタ 6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。