マルコ14:43-52 63『本当の勇気』 2021/07/25 けんたろ牧師

マルコ 14:43-52
14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
14:44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
14:45 ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
14:47 そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
14:48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
14:49 わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」
14:50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。
14:51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。

イエスさまと弟子たちは過ぎ越し祭りをともに祝い、聖餐のパンとぶどう酒を分かち合った。
その後、イエスさまは弟子たちとともにゲツセマネの園に行き、祈った。
これから捕らえられ、明日には殺されようとしているイエスさまは、十字架に向き合う苦難への不安から祈らずにはいられなかったのである。

しかし、イエスさまを取りなして祈るように言われていた弟子たちは眠ってしまった。

① 口づけで裏切ったユダ
イエスさまが祈り終わって弟子たちと話しているとすぐ、ユダが大勢の人々を連れて現れ、イエスさまに口づけした。
ローマ兵たちに、「私が口づけするのがイエスだ」と申し合わせていたのである。

ユダヤの文化で口づけは、親愛の印であり、男性同士でも口づけによって愛情を表現した。
その親愛のしるしによって、ユダはイエスさまを裏切ったのである。

ユダと一緒にいたのは剣や棒を持った群衆だと書かれているが、ヨハネの福音書ではその中に兵士たちもいたことが記されている。
イエスさまと弟子たちが抵抗することを見越してのことだったのだろう。

14:47 そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。

ヨハネの福音書によると、この時に切りかかったのはシモン・ペテロであり、切られたのは大祭司のしもべでマルコスという男だったことが分かる。
マルコスはこの後、イエスさまによって切り落とされた耳を癒された。
この男の名前まで分かっているのは、後にこの男が回心し、クリスチャンとなったからかもしれない。

② 本当の勇気
マルコスの耳を切り落としたペテロは、イエスさまにたしなめられた。

マタイ 26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
26:54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」

「剣を取る者はみな剣で滅びる」という言葉から学ばされることがある。
私たちの中にはみんなそれぞれに攻撃性があるが、それは新たな攻撃を生み出すことになる。
できることなら、剣ではない方法で物事を解決へと向かわせたいものである。

それにしても、十字架の苦難を恐れて「この盃を取り除いてください」と願っていたイエスさまが、なぜ受け入れる姿勢になったのだろうか?
それは、ゲツセマネの園での祈りによるのだと思う。
願いが聞かれるまで祈り倒すのではない。
祈り、求めた結果は主に委ね、そこに最善があると信じる。
少なくともそう思えるまで、イエスさまは神さまと対話したのだ。

途中で居眠りしてしまい、祈らなかったペテロたちはそう思うことはできなかった。
自らの力で戦い、解決しようとした結果が、剣を持ってマルコスの耳を切り落とすということだったのである。

本当の勇気は、自分の意志を貫き、戦い、勝ち取ることではないことを聖書は教えている。
神さまの御心を信頼し、尋ね、受け取り、従うことにこそ勇気が必要なのである。

③ 祈ることの大切さ
私たちは、どれくらい祈っているだろうか?
どのように祈っているだろう?

祈りがないがしろになってしまったり、神さまに願いをかなえさせる一方的な祈りになっていないだろうか?
祈りに大切なのは、願う以上に耳を傾けることである。
祈りは神さまを変えるためのものではなく、自分を変えるものだということを忘れてはならない。
そして何よりも、祈りとは神さまとの対話なのだ。

語り合うことなしに、どうして信頼を築くことができるだろう?
神さまをどれくらい知っているか、一度考えてみて欲しい。
神さまについて知っていることよりも、神さまを個人的に知ることの方が何倍も大切なこと。
神さまについて知るためには勉強すればいいが、神さまを個人的に知るためには、神さまと接し、語り合う意外にない。
礼拝で神さまについて話を聞くのは、全然十分ではない。
逆に、神さまについての知識はあまりなくても、神さまを個人的に知っている人は強い。
アブラハムやモーセはそんな人だった。
エリヤやエリシャもそうだった。
そう聞くと、「自分はそんな選ばれた人ではない」と感じるかもしれない。

しかし、イエスさまが生きている間は、イエスさまから神さまについて聞いているだけだった弟子たちは、聖霊を受け、神さまを直接知る者となった。
私たちも、誰でもそれができる。
必要なのは、イエスさまを受け入れ、聖霊を受け、神さまと対話し、示されたことに従うだけである。

Ⅰサムエル 15:22 サムエルは言った。「【主】は、全焼のささげ物やいけにえを、【主】の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

習慣となっていた自分の想いや考えを捨てて、神さまに聴き従うことには勇気がいる。
でも私たちは、自分を貫く勇気ではなく、神さまに従う勇気を持とうではないか。