マルコ14:53-65 マルコ64『神を裁く罪』 2021/08/01 けんたろ牧師

マルコ 14:53-65
14:53 人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。
14:54 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。
14:55 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
14:56 多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。
14:57 すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。
14:58 「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
14:59 しかし、この点でも、証言は一致しなかった。
14:60 そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」
14:61 しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」
14:62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
14:63 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。
14:64 あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。
14:65 そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。

イエスさまは過ぎ越しの日の夜、群衆に捕らえられた。
ペテロが、祭司のしもべマルコスの耳を切り落とすなど、抵抗を試みるが、イエスさまがそれを制し、イエスさまはあっさりと捕縛されてしまった。

① 真夜中の裁判
捕らえられたイエスさまは、夜中だったにも関わらず大祭司のところに連れていかれ、そこで裁判にかけられた。
裁判は、昼間行われるものである。
ユダヤの文化でもそれは例外ではなく、夜中に開かれているこの裁判は明らかに普通のことではなかった。

裁判は通常サンヘドリンという議員たちによって執り行われる。
サンヘドリンの中にはイエスさまを支持するニコデモもいたので、ちゃんとした裁判が行われていたら状況は変わっていただろう。
この裁判は正当なものではなく、イエスさまを裁いて有罪にし、死刑にしてしまうことが目的だった。

② 冒涜の罪
裁判は、大祭司の邸宅で私的に行われた。
しかし、そこではなかなかイエスさまに不利な証拠が出てこず、有効な判決を下すことができなかった。
見かねた何人かが立ち上がって、「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」(14:58)と言った。

イエスさまは、確かにそのようなことを言われていたことがヨハネの福音書に記されている。

ヨハネ 2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

これは、イエスさまご自身が神殿であり、殺された3日後に蘇ることを示唆した言葉だが、この時点でそれを理解できる人は誰もいなかった。
器物破損で訴えるチャンスではあったが、証言が一致することはなく、これも十分な証拠とはならなかった。
では、イエスさまはどのような理由で十字架にかけられることになったのだろう?
それは、大祭司の問いに対する答えによるのである。

14:61 しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」
14:62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

つまりイエスさまの罪とは、「自分はキリストである」と語った神への冒涜した罪である。
イエスさまは、他の多くの箇所では自らを神だとか、救い主と名乗ることはなかった。
むしろそのように告白する人たちに、「誰にも話してはならない」と言ってきた。
どうしてここでだけ、「やがて私は力ある方の座(王座)についき、天の雲とともに来るのを見るようになるなどと言ったのだろうか?

それは、主の時が来て、イエスさまは十字架に掛けられる必要があったからである。
ついに、全ての精算がされる時がきたのである。

では、これは大祭司たちが言うように、本当に神への冒涜だったのだろうか?
イエスさま以外の誰かがこのように言ったなら、それは確かに冒涜だっただろう。
自らを神と呼ぶような嘘であり、不遜であり、思い上がりであり、恥ずべきことだ。
しかし、イエスさまの場合だけはそうではなかった。
なぜなら、イエスさまが話したことは本当のことだったからである。

このとき冒涜の罪を犯していたのは、イエスさまではなく大祭司を始めとしたここにいる人々であった。
本当は私たちを裁くはずの方であるイエスさまを、逆に裁こうとしていたのである。

③ 神を裁く?
救い主のしるしが旧約聖書にはたくさん記されているのに、彼らはなぜイエスさまが救い主であり、神ご自身であることに気づかなかったのだろう?
それは、イエスさまは彼らが思うような救い主ではなかったからに他ならない。
私たちは、私たちの理解や願いに合わせた神を求め、それ以外を認めようとしない。
それは、私たちが神に成り代わり、神を従わせようとする行為に他ならない。

知らずとは言え、私たちも同じ罪を犯しているのではないだろうか?
私たちは、自分の価値観、自分の正義を基準に世界を見て、人々を裁く。
そればかりか、自分の価値観を基準にして、その通りにしない神さまに文句を言い、怒り、神さまを裁こうとしているのではないか。

私たちはみんな、ここにいたユダヤ人や、大祭司たちと同じ罪の根っこがある。
必ずしも同じ行動を取るわけではないだろうが、これが罪人となってしまった私たちの姿なのだと思う。

さて、皮肉にも、大祭司はこのように言って怒っている。

14:63 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。
14:64 あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。

大祭司は、イエスのような冒涜の罪を犯した者は死に値すると言い放った。
人々はそれに賛同し、次の日にはエルサレム中の人々がそれを望むようになった。
しかし、この時本当に神を冒涜していたのは誰だっただろうか?
神への冒涜が死に値するならば、本当に十字架にかけられ、死ぬべきは誰だったのだろうか?
まさに、その罪さえも背負って、イエスさまは十字架にかかったのである。
イエスさまは、私たちの罪も背負って、十字架にかかったのだ。