1コリント9:24-27 『信仰のレース』 2021/08/08 小林拓馬

1コリント9:24:競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたが
たは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。
25:競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうす
るのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26:ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もし
ません。
27:むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきなが
ら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

▼オリンピック、見てますか?
・今日が最終日
・何に一番感動しましたか?(聞いてみる)
・個人的ベストシーン:卓球男女ダブルス金(準決勝ドイツに負けそうなところから驚異の逆転勝
ち)、新井千鶴選手、準決勝でタイマゾワ選手と16分41秒の死闘の末金メダル、大橋悠依選
手200個メで残り15mを息継ぎなしのスパートで逆転2冠の金メダル、などなど……
・世界の選手も……400mハードル45.94という驚異的な世界記録(ノルウェー・ワーホルム選
手)、競泳女子200m平泳ぎ世界記録(南ア・タチアナ・スクンマーカー選手)、中国選手
100m9.83秒のアジア新記録(蘇炳添<そへいてん>選手)、走り高跳びの2人金メダルシェア
(カタールのバーシム選手とイタリアのタンベリ選手)などなど……ドラマがたくさん
・今日は、オリンピックにちなんで「信仰のレース」と題してメッセージをさせていただきます

▼どんなレース?
・ここでパウロが言っている「競技」とは何を指している?
→考えてもらう
→チャットに書き出すなど
・24~25節は、当時もあったオリンピック競技などの競技をたとえとして使っている。古代
オリンピックは既に始まっていて、コリント地域にもこのような競技大会があったようだ
・パウロがここで「一等賞」について言及しているのは、救われるのが1人だけという意味では
ない。他の人と比べて優劣があるということでもない。あくまでも競走の厳しさをたとえで語っ
ているのである
・これは「努力しなければ救われない」という意味ではない。救いはただイエスを信じて得られ
る恵みである。ただ、信じる恵みにあずかって以降の歩みには、自発的な行動も必要である。そ
のことを教えているのではないか
・スポーツでも1位を目指して努力する。だとすれば、なおさら信仰者として歩むことを全力で
取り組むべきではないか、という指摘である。
・当時からアスリートはものすごい「節制」をしていた。アスリートの節制はすさまじいもの。
金メダルとった人が「焼き肉行きたい」と口々に言うのも分かる気がする……
・当時のコリントの人はどういう状況だったか。ある意味「救われた」ということや、異言や預
言、癒やしなどの素晴らしい賜物に恵まれ、そこにあぐらをかいているような状況ではなかった
か。教会の集まりでの会食では貧しい人がなおざりにされていた。教会の中で淫らな行為があ
り、近親相姦もはびこっていた。
・そのようなコリントの人々に対して、パウロは反省、悔い改め、そして自制を勧めたのではな
いだろうか
・では、私たちには「節制」すべき部分はないか。言い換えれば「見直す」ことや「やめる」こ
と、また逆に「すべき」ことはあるだろうか
→考えてもらう
→チャットに書き出すなど
まとめ:私たちの信仰の歩みには「節制」が必要かもしれない。それは何なのか、考える必要が
ある

▼どこに向かって走るレース?
・さて、26節からはこのレースの「ゴール」がトピックになっている
・古代のアスリートたちも「朽ちる冠」のためにすさまじい節制をした。
・「朽ちる冠」とは? →月桂冠など、いずれは枯れるもの
・「金メダル」もいずれは色あせる。→先日、金藤理絵さんの本物の金メダルを見たが、結構サビ
サビに。
・「金メダル」の価値も、大人になるにつれて小さくなっていく気がする
・それでは「朽ちない冠」とは何なのか?
・「冠」という単語を聖書で調べてみた
<王や権威者の冠>
→ダビデの冠
→エステルの冠
→モルデカイの冠
→王冠も代々に続かない(箴言27:24)
<信じている人の冠>
→人への栄光と誉れの冠(詩篇8:5、ヘブル2:7、ヘブル2:9)
→御恵みの冠(詩篇65:11)
→恵みとあわれみの冠(詩篇103:4)
→義の栄冠(テモテ4:8)
→いのちの冠(ヤコブ1:12)
→しぼむことのない栄光の冠(ペテロ第一 5:4)
<こんなものも “冠” と表現>
→しっかりした妻(箴言12:4)
→知識、知恵の冠(箴言14:18,24)
→白髪は栄えの冠(箴言16:31)
→孫たちは老人の冠(箴言17:6)
→信者の仲間たち(ピリピ4:1、1テサロニケ2:19)
<メシア預言>
→大祭司ヨシュアの冠(ゼカリヤ6:11)
→花婿の栄冠(イザヤ61:10)
→メシアの王冠(詩篇132:18)
→イエスの茨の冠(マタイ27:29、マルコ15:17、ヨハネ19:2)
→黙示録の様々な「冠」
・冠の中心には王でありメシアである「イエス」の存在がある
・結局「朽ちない」のは永遠の存在である神様、イエス様だけ
・この神、イエスこそがこのレースの最終ゴールであり、希望である。ここから逸れたり、ブレた
りしないように、先の「節制」が必要なのである
まとめ:イエスこそが究極のゴール

▼レースに勝つ秘訣は何か?
・では、このレースで「失格者」とならない秘訣は何か。どうやったらレースに勝てるのか。負け
ないのか。勝利できるのか。
・勝利のカギが、聖書の言葉に書いてある。これはもはやドーピング!
1:こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです
から、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐
をもって走り続けようではありませんか。
2:信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を話さないでいなさい。この方は、ご自分
の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座された
のです。
3:あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考え
なさない。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。
(ヘブル人の手紙 12章1~3節)
・私たちの希望はイエスである。そして、イエスがただ死んで蘇った、というだけでなく、また帰っ
てくるという希望がある
・この希望こそがゴールの中心。このゴールを見据えることがレースの力である
・イエスのことを考える。これ以上のドーピングはない
・しかし、そうはいっても力が出ない時もある。
・そんなときは、この聖書の言葉を思い出してほしい
11:私は再び、日の下を見た。競走は足の速い人のものではなく、戦いは勇士のものではな
い。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある
人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ。
12:しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、罠にかかった鳥のよう
に、人の子らも、わざわいの時が突然彼らを襲うと罠にかかる。
(伝道者の書 9章11~12節)
・結局のところ、本当の信仰のレース、本当の信仰の戦いは人間のちからで優劣が決まるもので
はない。
・私たちをイエスにつなげ、試練から守り、導いてくださるのは「聖霊」である
・全て神の摂理の中で動いていること。まさにダビデが言ったように「この戦いは、主の戦いだ」
なのだ
・いつ「神のタイミング」があるか分からない。ただ毎日、目を覚ましていられるよう、究極の
ゴールであるイエスに向かって歩み続けていこう
まとめ:イエスのことを考える続けるのが試練を乗り越える秘訣。自分のちからではない。聖霊
に助けを求めよう
ぜひこの一週間、どのようにイエスに目を向けられるか、このレースを走り切るために、考えてみ
ましょう。