マルコ14:66-72 65『ペテロはなぜ主を否んだのか』 2021/08/15 けんたろ牧師

マルコ 14:66-72
14:66 ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。
14:67 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」
14:68 ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。
14:69 召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」
14:70 すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」
14:71 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。
14:72 するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。

クリスチャンになって30年近くが経ち、その間に何度聖書を通読したかわからないけれど、今でも新しい発見がある。
今日の箇所を通して、正にそれを思わされた。
金曜日にやっているオンライン・バイブルサロンでこの箇所が取り上げられ、司会者から今日のタイトルのような質問を投げかけられたのがきっかけ。
元々「こうじゃないか」という答えが自分の中にはあったが、結果的には全然違う答えにたどり着いた。

① イエス様救出のため?
元々僕が思っていたのは、ペテロは実はイエスさまを助けようとしていたのではないかということだった。
そうでなければ、ペテロがこの場にいた理由が説明できない。
本当に逃げたのなら、イエスさまが見えるこのような場所に居合わせたなどということは考えにくい。

ペテロは、何とか追手の目をかいくぐりつつ、イエスさまを救出しようと待ち構えていたのではないだろうか?
だから「あの人の仲間ではないか?」と問われても、「そんなことはない」と否定し続けたのではないのか?
しかし、その後のペテロの反応や、イエスさまが復活した後の出来事を考えた時、どこかうまくかみ合っていないように感じていた。

② あなたが話しているその人を知らない
ペテロが、イエスさまを救出しようと思って後をついて行ったことは間違っていないと思う。
しかしその時、ペテロは目撃したのだ。
罠にはめられ、偽証され、ついに神への冒涜として死刑の判決が下されても、何も答えようとしないイエスの姿を。
唾をはきかけられ、目隠しをしてこぶしで殴られ、誰が殴ったかを当てさせられたり、平手で打ってバカにされているのに、何もしようとない姿を。

この人はユダヤの王になる方ではないのか?
神の子、キリストではなかったのか?
そんな方が、このような仕打ちをただ耐えている意味がわからない。
奇跡の力でここから脱出すればいいではないか?
それとも自分たちは騙されていたのか?
今までの奇蹟や、キリストだという言葉は全て嘘だったのか?

ペテロは、イエスさまに絶望した。
ペテロの中では、イエスさまへの愛おしさが反転して、怒りや憎しみのような心が沸き上がっていたのではないだろうか。
だからペテロは、三度も「イエスなど知らない」と言い、最後には「嘘なら呪われても良い」とさえ言い放ったのだ。
その言葉は相手を惑わそうとして言った言葉ではなく、まさに本心から、そして本気で言った言葉だったのだ。

つまりこの時、ペテロの心は怒りや無念さに満たされて、完全にイエスさまから離れてしまったのだ。
言ってみれば、信仰を失ったに等しい。
自暴自棄になり、「本当にイエスを知っているなら呪われても良い」とさえ言い放ったその時、鶏が鳴いたのを聞いた。
そして、思い出したのだ。

マルコ 14:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

と言った、イエスさまの言葉を。そして、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言っていた。自分の言葉を。
そして、彼は泣き崩れた。

③ 主に立ち返る
それを考えてみると、イエスさまが復活した後のペテロの行動が理解できる。
「イエスさまが蘇った」という話はペテロの耳にも入っていたはずである。
でもペテロは、イエスさまの元に行こうとはせず、漁師に戻ってしまった。
イエスさまに合わせる顔がないと思ったのだろう。
ペテロはそれほどまでに落ち込み、自分に対して絶望してしまったのだ。

私たちも、信仰生活の中でイエスさまを見失い、絶望し、信仰を失ってしまうような時があるかもしれない。
「神さまが本当にいるなら、こんなことは起こらないはずだ」
「こんなに祈ったのに、イエスさまは何もしてくれないのか」
「自分は騙されていたのではないか? イエスさまが救い主というのは、幻想だったのではないか?」

そんな風に落ち込んだとき、そこから回復するのは簡単なことではない。
ペテロにとってもそうだった。
しかしイエスさまは、ペテロに予めこのようにも伝えていたのである。

ルカ 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

私たちが感じる痛みは、同じ痛みを経験した人にしかわからないことがある。
信仰を失うような絶望を経験したからこそ、届くことができる人たちがいる。
その人たちの心に届くため、私たちは絶望を味わうこともある。

私たちは、まずその絶望から立ち直る必要がある。
イエスさまに立ち返ろう。
漁師になったペテロの前に、イエスさまがもう一度現れて奇跡を起こしたように、イエス様ご自身がそれを助けてくださる。
私たちは頑なな心を捨てて、イエスさまの懐に飛び込んでいこうではないか。