マルコ15:1-15 66『キリストを十字架につけたのは誰か』 2021/08/22 けんたろ牧師

マルコ 15:1-15
15:1 夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
15:2 ピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」
15:3 そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。
15:4 ピラトは再びイエスに尋ねた。「何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。」
15:5 しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。
15:6 ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた。
15:7 そこに、バラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。
15:8 群衆が上って来て、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
15:9 そこでピラトは彼らに答えた。「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」
15:10 ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。
15:11 しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。
15:12 そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」
15:13 すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」
15:14 ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
15:15 それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

イエスさまは、過ぎ越しの日の夜に捕らえられ、大祭司の邸宅に連れていかれ、そこで私的な裁判にかけられた。
たくさんの証言にも関わらず、そこではイエスさまを罪に定めることができなかったが、「お前はほむべき方の子、キリストなのか」という問いに、「わたしがそれです」と本当のことを答えたために、冒涜罪の罪に定められ、死刑の判断が下された。

そして夜が明けると、イエスさまは一切抵抗していないにもかかわらず縛られて、ローマ総督ピラトの元に引き渡された。

① なぜピラトの元に連れていかれたのか
大祭司たちは、なぜイエスさまをピラトの元に連れてきたのだろうか?
それは、この時代のユダヤでは、大祭司たちには法的な判決を下し、刑を執行することができなかったからである。

旧約聖書の時代であれば、大祭司には判決の決定権があったし、イエスさまを処刑することもできた。
しかし、イスラエルの律法にはこのように記されている。

レビ記 24:16 【主】の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。

律法によれば、冒涜罪によってイエスさまは石打によって処刑されていたことになる。
イエスさまが十字架にかけられることになったのは、イエスさまがローマ帝国の時代に来たからに他ならない。

② ユダヤ人の王
イエスさまが連れてこられると、ピラトは「おまえはユダヤ人の王なのか」と尋ねた。
大祭司たちが尋ねた「キリストなのか」とは違うが、これはキリストとはユダヤ人の新しい王のことだと説明されたからだろう。
イエスさまはこの問いに、「あなたがそう言っています」と応えた。
これは、「その通りです」という同意のことば。

大祭司たちにとって、この問いに対する同意は「神への冒涜」を意味していた。
しかしローマ帝国にとっては別の意味を持っている。
それは、クーデターという政治的な犯罪である。
とは言えピラトには、イエスさまがクーデターを企てる政治犯には思えなかった。

判事としての経験上、イエスさまが本当にそのようなことを企んでいる人間かどうかは、一目見ればわかっただろう。
権力に執着しているのはむしろ大祭司の方だということも見抜いたかもしれない。
しかしピラトが驚いたのは、イエスさまが一切の弁明をしようとしなかったことである。
告発に対して何の弁明もなければ、原告の訴えはそのまま死刑の判決となってしまう。
別にこのイエスという男を助ける義理はないが、どう考えても無罪な人間を死刑にしてしまうのは寝覚めも悪い。
ピラトはその判断を、民衆に委ねることにした。

③ バラバ
ピラトは、ローマ総督の権限として、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの日に、ひとりだけ囚人の罪を赦し、釈放していた。
ピラトは民衆に、本当の犯罪者だったバラバと、どう考えても悪いことをしていないイエスのどちらを開放するか、選ばせたのである。
しかし、結果はピラトの思惑の通りにはいかなかった。
民衆は、イエスではなくバラバを選んだのである。

バラバの釈放を叫んだのは、彼の仲間だっただろう。
そして、イエスを十字架につけろと叫ばせたのは、大祭司たちだっただろう。
とは言え、数日前に「ホサナ、ホサナ」とイエスさまを迎え入れた人々が、どうしてここまで反対の立場になってしまったのだろう?

そこには民衆の真理があったのではないか。
これと似た現象を、私たちは日々テレビやネットで観ているのではないか。
芸能人やスポーツ選手などの人気のある有名人が、一つの出来事をきっかけに日本中で叩かれるようになってしまう。
そこには、少しでも誰かを自分の下に見て、断罪したいという欲求がある。
自分がうらやましいと思う人たちを引きずり下ろし、叩くことで自分に価値があるように感じることができる。
有名人たちは、その生贄となってしまうのだ。
でもその感情は、私たちの中にもあるのではないだろうか?

民衆の反応をここまで変えてしまったのは、イエスさまが人々の期待に応えなかったからだと思う。
奇跡を起こす力があって、人々を救い、我々をローマから解放してくれる救い主だったはずなのに、捕まったら何もすることができない。
それ自体が自分勝手な妄想を押し付け、それに答えなかったイエスを偽物と決めつけ、断罪し、軽蔑し、侮辱したのである。

イスカリオテのユダ罪は銀貨30枚でイエスさまを売った。
ペテロはイエスさまを「知らない」と言い、他の弟子たちは逃げ出した。
大祭司はイエスさまに嫉妬し、「神を冒涜した」と決めつけて、逆に神を冒涜した。
民衆は、自己肯定感を高めるための生贄として利用するために、イエスさまを「十字架につけろ」と叫んだ。
そして異邦人ピラトは、民衆の炎上におののき、その矛先が自分に向かないように、イエスさまを見殺しにしたのである。

キリストを十字架につけたのは誰か?
それは、上記の全ての人だったのではないか?
そして私たちもまた、その場にいたらこの中の一人になっていたのではないだろうか?

イエスさまは、そんな私たちすべての罪を背負って、十字架にかかったのである。