マルコ15:16-32 67『ユダヤ人の王』 2021/09/05 けんたろ牧師

マルコ 15:16-32
15:16 兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
15:17 そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
15:18 それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。
15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
15:20 彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
15:21 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。
15:22 彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。
15:23 彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
15:24 それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。
15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27 彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。
15:28 【本節欠如】
15:29 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。
15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
15:32 キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。

いよいよ、イエスさまが十字架に掛けられる時がきた。
ローマ総督のポンテオ・ピラトは、イエスさまには十字架に掛けるだけの理由がないと判断しながらも、民衆の扇動に負けて、民衆の機嫌を取ることを優先した。

イエスさまはムチで打たれた。
ローマのムチは、金属片がつけられた皮のムチであり、人を切り裂き、肉をえぐり、苦痛が激しいことで知られている。
そのようなムチ打ちを死なないギリギリのところまで受けた後、イエスさまは刑の執行人たちに引き渡された。

① 人々のあざけり
イエスさまは、様々な形であざけりを受けた。
兵士たちはイエスさまに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼した。
紫は皇帝だけに許された色であり、とげだらけの茨の冠をかぶせられた。
茨のとげは頭に突き刺さり、出血はさらに増しただろう。
また葦の棒で頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
そうしてイエスさまを侮辱してから、紫の衣を脱がせて元の服を着せた。

つい数日前まで、人々はイエスさまを本気で「ユダヤ人の王」として受け入れ、崇めていたのに、今は「ユダヤ人の王」という言葉は嘲弄のことばとなった。
同じ言葉でも、意味が変わる言葉がたくさんある。
私たちが使う「神」という言葉もそう。
創造主である聖書の神を表す言葉でもあれば、単にすごい人のことを神と呼ぶこともある。
大切なのは、その言葉そのものよりも、どのような意味でその言葉を使うかということ。
私たちはどのような意味でその言葉を使うだろうか?

② クレネ人シモン

15:21 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。

むちで打たれたイエスさまは、自分で十字架を背負うほどの体力が残っていなかったため、クレネ人のシモンという人が呼ばれ、イエスさまがかかる十字架を運ばされることになった。
ここで子どもたちの名前まで明記されているのは、この人が後にクリスチャンとしえt行動をともにしたことを意味している。

しかし、この十字架は誰のためのものだっただろうか?
ナザレのイエスの十字架を自分が運ぶことになったとシモンは考えたかもしれないが、実はそうではない。
イエスさまがかかった十字架は、イエス様自身のためではなく、世の人々のための十字架だったのだから。

つまりこれは、シモン自身のための十字架でもある。
シモンは自分の十字架を背負い、その十字架にイエスさまがかかってくださったということである。
イエスさまのこの言葉を思い出す。

マタイ 16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

私たちはみんな、自分の十字架を負ってイエスさまに従う必要がある。
十字架は他人事ではなく、私たち自身のものなのである。

③ ゴルゴタの丘
イエスさまは、ゴルゴタ(どくろ)の丘と呼ばれるところで十字架にかけられた。
不吉な名前の場所である。

15:23 彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。

過ぎ越しの聖餐のとき、「ぶどうで作ったものを死ぬときまで飲まない」と言っていた通り、イエスさまは没薬を混ぜたぶどう酒を受け取らなかった。
イエスさまは、十字架で私たちの罪を贖い、痛みや苦しみをしっかりと受ける必要があったからである。

最後にイザヤ書のことばを引用して終わろう。

イザヤ 53:1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。
53:2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
53:9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

これは、イエスさまが十字架にかかる700年前にイザヤによって預言されていた言葉。
十字架の時に起こった出来事を知っている私たちには、まさにこの日のことを預言していたとしか思えないことが記されている。
しかし、ここで預言されていたように、この場にいたほとんどの人たちは、今十字架に掛けられようとしているこの人こそ、彼らが待ち望んでいた救い主だということに気が付かなかったのである。

主のみこころは、彼によって成し遂げられようとしていた。
それこそ、人が神に背いて罪人となった次の瞬間から、神さまが計画し、約束していた救い主の姿であり、救いの完成である。
私たちは、それを信じ、受け取る者でありたいものだ。