マルコ15:33-41 68「十字架の苦しみ」 2021/09/26 けんたろ牧師

マルコ 15:33-41
15:33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
15:34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
15:36 すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
15:40 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。
15:41 イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

前回に引き続き、イエスさまの十字架の話し。

① 父の苦しみ
十字架にかけられることは大きな苦しみであったことに違いがない。
その苦しみは御子イエスだけのものではなく、父の痛みでもあり、苦しみでもあった。

15:33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。

まだ正午であるにもかかわらず、闇が全地を覆った。
天体学的に見て、この時期にこの地域で皆既日食が起こることはないという。
アモス書の中では、このような預言がされている。

アモス 8:9 その日には、──【神】である主のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。
8:10 あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。

この日、この時、父なる神の痛みが、全世界を覆った。
世界もまた、その痛み苦しみを受け、喪に服した。

② 十字架の上でのことば
午後3時になると、イエスさまは大声で叫ばれた。

15:34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

これは、詩篇22篇に記されていることばである。

詩篇 22:1 わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
22:2 わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。
22:3 けれどもあなたは聖なる方御座に着いておられる方イスラエルの賛美です。

イエスさまは、神から見捨てられたと嘆いでいるのではなく、それでも主を賛美しますという言葉であることがわかる。
他にも、イエスさまはこのような言葉を十字架の上で残している。

ルカ 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

ルカ 23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

ヨハネ 19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

ヨハネ 19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

ヨハネ 19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

ルカ 23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

③ 神殿の幕
イエスさまが息を引き取ったのと同時刻、神殿の中ではもひとつの異変が起こっていた。

15:38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

この幕とは、神殿の中にある聖所のさらにその奥、至聖所に掛けられている幕である。
その先には年に一回、大祭司だけが入ることを許されていた場所。
相応しくないものがそこに入ったり、相応しくない行動をすると、神に打たれて死んでしまう。(モーセの時代、アロンの息子たちが死んでいる。)

そこで、至聖所に入る大祭司にはロープが巻き付けられ、その衣には鈴が付けられていた。
そして大祭司が中で死んでしまったら、その外にいる人たちがロープを引いて大祭司の死体を取り出すのである。
神と人にはそれほど大きな隔たりがあった。

しかし、イエスさまが十字架の上で息を引き取った時、その幕が上から下に裂けた。
それは、イエスさまの命によって私たちの罪が贖われ、神と人との間にあった隔たりが取り除かれたことを意味している。

今や私たちは、大体に神さまの身元に行くことが許されている。
いやむしろ、神さまはそのことを心から望んでいる。
私たちは心から神さまを求め、もっと積極的に神さまの御前に出ていこうではないか。