マルコ15:42-47 69『人の目を恐れず』 2021/10/03 けんたろ牧師

マルコ 15:42-47
15:42 さて、すでに夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。
15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。
15:45 百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。
15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた。
15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。

イエスさまは午後3時に息を引き取り、その後すぐに埋葬される運びとなった。
安息日の前日だったからである。
安息日の前日と言っても、ユダヤ人の一日は日没から始まるので、数時間後には安息日が始まってしまう。

ユダヤ教では安息日には一切の仕事が禁じられているため、埋葬の作業は大急ぎでされることになった。

① アリマタヤのヨセフ
そこで立ち上がったのは、アリマタヤ出身のヨセフという人である。

15:43 アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。

このヨセフはサンヘドリンという議員のひとりだった。
サンヘドリンは、ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織。71人の長老たちから構成され、一人が議長、一人が副議長、69人が議員であった。メンバーは祭司たち、法学者、ファリサイ派などからなっていた。最高法院、最高議会、長老会とも訳される。

このような権威を持った人だったので、死刑囚の遺体を引き取るという申し出にも応じられたのだろう。
弟子たちの一人が同じ行動を起こしても、追い返されるだけだったに違いない。

しかし、死刑囚とされた男の遺体を引き取り埋葬するということは、自分の地位や肩書に傷をつけるリスクのある行動だった。
聖書には「勇気を出して」と一言で書かれているが、実際には大変な決意を必要とした。
それでもヨセフが行動を起こしたのは、大急ぎで埋葬する必要があったこととともに、彼もまたイエスを信じ、神の国を待ち望む一人だったからだ。

② ニコデモ
マルコの福音書に記述はないが、同じようにサンヘドリンの一員でありながら、自らの立ち位置を表明した人がいた。
以前イエスさまをこっそりと訪れたことがあったニコデモである。
以前は、一目につかないようにこっそりやってきたニコデモだったが、今回は人目をはばかることなく、アリマタヤのヨセフを手伝った。

ヨハネ 19:39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。

イエスさまの周りにいた女性たちもその場にいてその様子を見守っていた。

15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。

この女性たちは、イエスさまが十字架に掛けられ、亡くなられるまでの様子もそっと見守っていた。

私たちは、いつも自分の旗を振って宣伝する必要まではないかもしれないが、リスクを負っても自分の意志を表明しなければならないときがある。
私たちはその時、自らの立ち位置を明確にすることができるだろうか?
パウロもまた、手紙の中でこのように言っている。

ローマ 1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

③ 弟子たち
一方で、弟子たちの多くは、十字架の時も埋葬の時も表に出てくることができなかった。
イエスさまの十字架の時に登場するのは、福音書を書いたヨハネくらいのものである。
ペテロはイエスさまを3回否定し、他の弟子たちも姿をくらましてしまっていた。
人の目を恐れてしまった弟子たちを、イエスさまはどのように感じただろうか?

そんな弟子たちに対して、イエスさまは怒り、不甲斐なく思ったという記事はない。
十字架から3日目の朝、復活した後、イエスさまは弟子たちの前に姿を現した。
しかし、「なぜ逃げたのか」と追及するようなことはなく、むしろ弟子たちを安心されるかのように、復活した自らの姿を見せて回ったのである。

疑い深いトマスには、自らの釘の跡ややりで刺された跡を触らせ、自分が本物であることを確かめさせた。
イエスさまを3度否定したペテロのためには、イエスさまは3度「私を愛するか?」と問い、3度「愛します」と答えさせて心の赦しと癒しを体験させた。

私たちは、時として人の目を恐れてしまうこともある。
逃げ出してしまったり、イエスさまを否定してしまうことすらあるかもしれない。
でもイエスさまは、そんな私たちを見捨てることない。
合わせる顔がないと思っていた私たちに近づき、寄り添い、赦してくださる。
私たちは今度こそその関係を回復し、また歩み始めることができるはずだ。
そうして立ち返った弟子たちがどのようになっていったか、私たちはそれを使徒の働きに中で確認することができる。

しかし、ただひとつ例外がある。
イスカリオテのユダに関してだけは、赦しと癒しを届けることができなかった。
ユダは自分がイエスさまを売ってしまったことを後悔し、金を祭司長たちに投げつけて自らの命を絶ってしまったからだ。

私たちは、他人を裁いてはいけないのと同じように、自分自身を裁いてはいけない。
裁きは全て主に委ね、その裁きを受け取る必要がある。
私たちがその判決をイエスさまか聞くなら、その答えはひとつだ。

「私はあなたを赦す。私はそのために、十字架にかかったのだから」