マルコ16:1-8 70『ここにはおられません』2021/10/10 けんたろ牧師

マルコ 16:1-8
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
16:5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
16:6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。
16:7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
16:8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕

イエスさまが葬られてから3日目となる安息日が明けた朝、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメたちは、イエスさまの遺体に香油を塗るために墓に向かった。
イエスさまが亡くなったのが金曜日の午後3時、午後6時ころには埋葬を終え、土曜日が丸一日安息日。
そして、日曜日の日昇とともに安息日は明ける。
「3日目」と言うが、実際には36時間ほどの間だったことになる。

遺体が腐ってしまう前に香油を塗りたかった女性たちは、安息日が明けるや否や墓に向かった。
そこに、彼女たちのイエスさまに対する愛情や情熱を見ることができる。

① 御使い
金持ちの墓の前には円状の大きな石の扉があり、それが閉じられた状態になっている。
それを動かすには女性の力だけでは難しいが、彼女たちが墓を訪れたのは早朝。
墓を開けて、彼女たちが遺体に香油を塗るのを許してくれる人たちがいるだろうかと不安な面持ちで彼女たちはイエスさまの墓を訪れた。

実はそこにはローマ兵がいて、イエスの弟子たちが遺体を盗みに来ないように見張っていた。
そのままいけば、彼女たちはそこから追い出されてしまっただろう。
しかしそこに御使いが現れ、状況は一変した。
マタイの福音書では、この辺りのことがもう少し詳しく記されている。

マタイ 28:2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
28:3 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
28:4 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。

御使いは彼女たちに、墓の中にイエスはいないこと、蘇られてガリラヤに行ったのでそこで会えること、そのことを弟子たちに伝えて欲しいということを女性たちに伝えた。

② 弟子たちの反応
急いで帰った女性たちは、弟子たちにこのことを伝えた。
しかしほとんどの弟子たちは、彼女たちの声に耳を貸さなかった。
この時、ペテロとヨハネだけはこの言葉に耳を留め、墓場に向かったようである。
彼らが見たのは、空になった墓と、残された荒布だけだった。
この出来事を見た弟子たちは、イエスさまが生前語っていた死んだ後もう一度蘇ることと、ガリラヤで会おうという言葉を思い出し始めていた。

イエスさまはなぜ、ガリラヤで会おうと言っていたのか?
それは、弟子たちとっての出発点がガリラヤだったからだ。
挫折し、心が折れた時、初めの愛に戻ること、原点に戻ることが求められている。
でもそれは、キリスト教に興味を持った時でも、洗礼を受けたきっかけのことでもない。
大切な原点は、イエスさまと出会い、ともに歩み始める決意をしたときだ。

私たちはその原点をすぐに見失ってしまう。
そして、教会という組織や、キリスト教という宗教のこと、他のクリスチャンとの関係のことなどに頭を悩ませ始めてしまうのだ。

イエスさまと出会った時、私たちはその愛に触れ、心が打ち震えたのではなかったか?
イエスさまと出会った時、私たちはその優しさを知り、この方に仕えたいと願ったのではなかったか?
最初の情熱を取り戻した時、私たちはこれまで気づかなかった神さまの意図に気づくかもしれない。
自分の原点がどこにあるか、もう一度確かめてみてはどうだろう?
もしそのような出会いをまだ経験していないなら、今こそ求めてみればいい。
求め続けるなら、必ず与えられる。

③ マルコの福音書短いバーションの最後
8節の後半、〔 〕でくくられた箇所があることに気付いただろうか?
同じように、9節以降も〔 〕でくくられている。
これは、写本によって言葉が違っている部分があることを表していて、マルコの福音書には8節で終わる短いバージョンと、20節まで続く長いバージョンがあることを意味している。
今回は、短いバージョンの後半を見てみよう。

〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕

この箇所で印象に残るのは、「イエスさまご自身が、彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を送られた」というところではないだろうか?
長いバージョンは、これをもう少し具体的な言葉で補足しているだけだ。

私たちには、キリストのからだとしてこの世界で人々に仕え、福音を宣べ伝えることが命じられている。
そのために、それぞれに与えられている個性を活かし、使命を果たしていくわけだ。

しかし、それをなすのは私たち自身の力ではなく、イエスさまご自身がなさることだということを忘れてはならない。
これは少し難しいバランスで、私たちは神さま任せで何をしなくてもいいということではないし、かといってがんばって神さまの業を私たちがするということでもない。
大切なのは、私たちが「これをしなさい」と命じる神さまの声に耳を澄ませて、「やるべきことをする」ということだ。
そしてそれは、「やるべきこと以外をしない」ということでもある。

多くの場合、私たちは何もしなさ過ぎだったり、がんばってやり過ぎだったりするのではないだろうか?
今、私がするべきことが何か、神さまに聞き、そしてそれに従おう。

ヘブル 4:10 神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。

と聖書では言われている。
クリスチャンとして生きることは、この安息に生きることなのだ。