マルコ16:9-20 71『全世界に出て行き…』 2021/10/17 けんたろ牧師
マルコ 16:9-20
16:9 〔さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。
16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。
16:11 彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。
16:12 それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿でご自分を現された。
16:13 その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。
16:14 その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
16:18 その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」
16:19 主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕
聖書の中で〔 〕で括られている部分は、写本によっては存在しない部分。
そのため後から付け加えられた可能性がある部分だが、他の福音書と共通している部分も多く、信ぴょう性が高い。
そして何よりも、私たちにとって大切な事を教えている部分でもある。
その中で重要なのは、復活したイエスさまが弟子たちに語ったこと。
それは、イエスさまの弟子となった私たちにも伝えたかった言葉だから。
① 福音を宣べ伝えなさい
16:15 それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
イエスさまが私たちに命じていること。
それは、全世界に出て行き、福音を宣べ伝えることである。
大切なのは、私たちが全世界に出て行くことであって、教会という組織や建物を大きくすることではない。
私たちはただ集まって、固まっていてはいけない。
それぞれに遣わされているところがあり、そこで福音を伝えていくことが大切。
もちろんそれは、簡単なことではない。
祈りが必要だし、私たち自身が神さまとの関係の中で心が豊かにされていなければ、なかなか伝わるものでもないだろう。
一体どうすれば伝わるのか、私たちはそのひとつひとつは神さまに尋ねる必要がある。
② 信じる者は救われる
16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
この言葉によって不愉快になる人もいるだろう。
神さまは自分を信じる者だけを救い、信じない者は裁くというのはあまりに勝手ではないか?
神が世界を作ったのだから仕方がないこととは言え、救われるか救われないかを分けられるのは愉快なことではない。
そのように感じるとき、そこにはいくつかの誤解があるように思う。
まず福音とは何かということ。
福音とは、キリスト教という宗教に所属して教会に通うことではない。
福音とは、神との関係の回復である。
信じるなら、私たちは神とともに歩み、神と共に生きることができる。
神は私たちを罪から解放し、必要を備え、喜びの中を歩ませてくださる。
そして私たちは、永遠にそれを失いことがない。
では、福音を受け入れないとはどういうことか?
それは、自分の全てに自分が責任を持って生きるという生き方である。
自分が生きたいように生き、好きなことをする。
しかし、私たちが自由にできることなんてそれほど多くはない。
大切にしていたものも永遠には続くことはないので、やがて失いことになる。
それでも永遠に存在しなければならないとしては、それ自体が地獄のような状態ではないだろうか?
私たちは福音に触れた時、それを受け入れるか受け入れないかという選択に迫られる。
それを受け入れ、信じ、神と共に歩み始めるならそこに神の国が始まり、拒絶して一人で生きる道を選ぶなら、そこから滅び道が始まる。
神によって選択されるのではなく、私たち自身がそれを選択しているのだ。
ただ、その選択が何をもたらすのか、私たちは理解していない。
だからこそ、福音を知っている私たちが、それを伝えていく必要がある。
ローマ 10:14 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
③ 信じる人たち与えられるしるし
16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
16:18 その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」
イエスさまを信じて聞き従う人々は、ここに記されているような奇跡を体験する人たちがたくさんいた。
それは現代でも同じである。
しかし大切なのは、このような奇跡を体験することではなく、あくまでもイエスさまとともに生き、聞き、従うということ。
奇蹟はその結果に過ぎない。
現代に生きる私たちは、私たちに身近な奇跡を別のカタチで経験することも少なくない。
では、どうすればそのような体験ができるのか?
最後の節がそれを教えている。
16:20 弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕
弟子たちはイエスさまに従い、いたるところで福音を宣べ伝えた。
その時、主が彼らとともに働いて、みことばをそれに伴うしるしをもって確かなものとされたと書かれている。
私たちはただ主に聞き従い、主に働きをしていただくのだ。
私たちの業では奇跡は起こらない。
主がそこに働いてくださるとき、そこに奇跡は起こる。
そしてそのためには、私たちが行くところどこにでも、主と共に行く必要があるのである。