アモス1:1-2:8 アモス1『三つの背き、四つの背き』 2021/10/24 けんたろ牧師

アモス 1:1-2:8
1:1 テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。
1:2 彼は言った。【主】はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。羊飼いの牧場は乾き、カルメルの頂は枯れる。

今回から小預言書のシリーズに入る。
小預言書はあまりメッセージで語られることがないし、わかりにくいのであまり印象に残っていないと思う。
そこで、なるべく一つ一つを取り上げて話していこうと思う。

まずは北イスラエルのことを預言した預言者から。
時代的に、割と早い段階で活躍していたのはアモス。
アモスは元々預言者ではなく、ユダの田舎で羊飼いをしていた牧者だった。
それが神さまの言葉を受けて預言者となったのである。

アモスが活動していたのは、ヨナとほとんど同じ時代。
ヨナがニネベに行ってアッシリアの悔い改めに関わっていたころ、他の国々がどういう状況にあったかを知ることができる。

① 三つの背き、四つの背き
アモス書の1章から2章に掛けて、「○○の三つの背き、四つの背きのために」という言葉が繰り返される。
これは慣用句的表現で、実際に罪がいくつかルカということが問題ではなく、それぞれの国には罪の問題があることを示すことが目的。
アモスは八つの国に関してその罪を明らかにするが、それは本当のターゲットに向けて少しずつ近づいていく螺旋のような構造となっている。

第一の町ダマスコはアラムのことであり、現在のシリアである。

アモス 1:3 【主】はこう言われる。「ダマスコの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが鉄の打穀機でギルアデを踏みにじったからだ。
1:4 わたしはハザエルの家に火を送る。その火はベン・ハダドの宮殿を焼き尽くす。
1:5 わたしはダマスコのかんぬきを打ち壊す。王座に着いている者をアベンの谷から、王笏を持っている者をベテ・エデンから断つ。こうしてアラムの民はキルへ捕らえ移される。──【主】は言われる。」

第二のガザはペリシテ人のこと。

アモス1:6 【主】はこう言われる。「ガザの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らがすべての者を捕囚の民として捕らえ移し、エドムに引き渡したからだ。
1:7 わたしはガザの城壁に火を送る。その火はその宮殿を焼き尽くす。
1:8 わたしは、王座に着いている者をアシュドデから、王笏を持つ者をアシュケロンから断つ。わたしはエクロンに手を向け、ペリシテ人の残った者は滅びる。──【神】である主は言われる。」

第三はツロ。

アモス 1:9 【主】はこう言われる。「ツロの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らがすべての者を捕囚の民としてエドムに引き渡し、兄弟の契りを覚えていなかったからだ。
1:10 わたしはツロの城壁に火を送る。その火はその宮殿を焼き尽くす。」

4番目はエドムで、これはアモス書の次のオバデヤ書でもっと詳しく記されている。

アモス 1:11 【主】はこう言われる。「エドムの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが剣で自分の兄弟を追い、あわれみを断ち、いつまでも怒り、どこまでも激しい怒りを保ち続けたからだ。
1:12 わたしはテマンに火を送る。その火はボツラの宮殿を焼き尽くす。」

第5はアンモン人。

アモス 1:13 【主】はこう言われる。「アンモン人の三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らがギルアデの妊婦たちを切り裂いて、自分の領土を広げたからだ。
1:14 わたしはラバの城壁に火を放つ。その火はその宮殿を焼き尽くす。戦いの日の、ときの声のうちに、つむじ風の日の突風とともに。
1:15 彼らの王は、その高官たちとともに捕囚の身となる。──【主】は言われる。」

6番目はモアブ。

アモス 2:1 【主】はこう言われる。「モアブの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼がエドムの王の骨を焼いて灰にしたからだ。
2:2 わたしはモアブに火を送る。その火はケリヨテの宮殿を焼き尽くす。モアブは、どよめきのうちに、ときの声と角笛の音のうちに死ぬ。
2:3 わたしはさばく者を町の真っただ中で滅ぼし、そのすべての高官たちを彼とともに切り殺す。──【主】は言われる。」

これらの国々は、士師記の時代からずっとイスラエルを苦しめてきた近隣諸国である。
アモスの預言を聞きながら、それを耳にしていたイスラエルの人々は、神の正義の裁きがそれらの国々に下る預言を聞いて歓喜していたことだろう。
しかし、アモスの預言はそれだけで終わらない。

② 神の民への裁き
アモスの預言の言葉は、イスラエルと同じ神の民であるユダの裁きへと進んでいく。

アモス 2:4 【主】はこう言われる。「ユダの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが【主】のおしえを捨てて、その掟を守らず、先祖がつき従ったまやかしものが彼らを惑わしたからだ。
2:5 わたしはユダに火を送る。その火はエルサレムの宮殿を焼き尽くす。」

そしてその言葉は、ついにイスラエルの裁きついて語られる。

アモス 2:6 【主】はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。
2:7 彼らは、弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚している。
2:8 彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った衣服の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を自分たちの神の宮で飲んでいる。

アモスの時代は、一度勢力を強くし始めたアッシリア帝国が、恐らくはヨナの働きにより侵略を辞めていた時代。
ヤロブアム2世の時代にはイスラエルが経済的にも繁栄していたころだったので、みんな安心して浮かれていたことだろう。

しかしその背後では、人々は神さまに背き、悪が横行していた。
周りの諸国はもちろん、イスラエルも神さまから離れてしまっていたのである。
神さまの祝福を失えば、神さまが手を下すまでもなくそこに災いは起こる。
この後ほどなくして、アッシリア帝国ではティグラテ・ピレセルが王となり、再び侵略を始める。
それはこれまでにないような凶暴性をもった侵略であり、アッシリアはそれ以前の歴史にはなかったような一大帝国を築き上げるのである。

③ 他人のふり見て
私たちは、何か辛く苦しい出来事を経験した時、「なぜ自分がこんなめに合うのだろう」と思う。
一方で、他の人々に正義の裁きが下されることを期待する。
しかし、「正義」という観点から見るなら、私たちもまた裁きを受けるのが当然なのではないだろうか。

私たちは、人には厳しく自分には甘い。
自分はむしろ正義だと思い、自ら誰かに正義の鉄槌を加えようとさえする。
芸能人や政治家への批判や、ネットの炎上はそうやって起こり、広がっている。

私たちは等しく罪人であることを忘れてはならない。
他の人々が罪の報いを受けるとき、それを見て「ざまぁみろ」なんて思っている場合ではない。
その裁きは、いつ私たちに降り注いでもおかしくないものなのだ。

自分自身は神さまと良い関係を築けているか?
私たちはどこに喜びを感じているか?
私たちはどんな時でも、自分自身を顧みる機会になるのではないだろうか。