アモス3:1-4:13 アモス2『あなたの神に会う備えをせよ』 2021/10/31 けんたろ牧師
アモス 3:1-4:13
3:1 「イスラエルの子らよ、聞け。【主】があなたがたについて告げた、このことばを。わたしがエジプトの地から連れ上った、あなたがたすべての部族についてのことばを。
3:2 わたしは、地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、あなたがたのすべての咎のゆえにわたしはあなたがたを罰する。」
3:3 約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか。
3:4 獲物もないのに、獅子が森の中で吼えるだろうか。何も捕らえていないのに、若獅子がその洞穴で声をあげるだろうか。
3:5 罠も仕掛けられていないのに、鳥が地の鳥網にかかるだろうか。何も捕らえていないのに、鳥網が地面から跳ね上がるだろうか。
3:6 角笛が町で鳴らされたら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起こったら、【主】がそれをなされたのではないか。
3:7 まことに、【神】である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。
3:8 獅子が吼える。だれが恐れないでいられよう。【神】である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。
牧者であり、預言者でもあったアモスは、アラムの裁き、ペリシテの裁き、フェニキアの裁き、エドムの裁き、アンモンの裁き、モアブの裁き、そしてユダ王国の裁きについて預言した。
そして神の裁きは、ついにイスラエル王国に及ぶ。
これこそ、神さまがアモスに伝えるようにと命じていた預言の中心である。
アモスが活躍したのはヤロブアム2世の時代。
ヤロブアム2世の時代は、北イスラエルの歴史の中では最も繁栄していた時代だった。
アッシリア帝国はその侵略の手を休め、経済的には成功していたこの時代に、しかしアモスは神さまの厳しい言葉を人々に届けた。
① すべてのことには理由がある
神さまは、イスラエルを祭司の民として選んだ。
だからこそ、イスラエルには祭司としての重い責任がある。
特別な祝福を受けているからこそ、彼らが受けなければならない罰も大きい。
アモスはこのように言葉を続ける。
3:3 約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか。
3:4 獲物もないのに、獅子が森の中で吼えるだろうか。何も捕らえていないのに、若獅子がその洞穴で声をあげるだろうか。
3:5 罠も仕掛けられていないのに、鳥が地の鳥網にかかるだろうか。何も捕らえていないのに、鳥網が地面から跳ね上がるだろうか。
3:6 角笛が町で鳴らされたら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起こったら、【主】がそれをなされたのではないか。
これは、すべてのことには理由があるという話。
私たちは、経験する様々な出来事をそれだけで理解して処理しようとしてしまう。
しかし、その出来事がなぜ起こっているのか、それを通して何が表わされているのかを考える必要があるかもしれない。
② 神からの警告
神さまは、さまざまなカタチで私たちに警告を送っている。
私たちが最終的な裁きを受けて滅ぼされてしまう前に、神さまは私たちにメッセージを送っているのである。
アモス 4:6 わたしは、あなたがたのすべての町で、あなたがたの歯を汚さず、すべての場所で、パンを欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。──【主】のことば──
4:7 わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたに雨をとどめた。ある町には雨を降らせ、ほかの町には雨を降らせなかった。ある畑には雨が降ったが、雨の降らなかった畑は乾ききった。
イスラエルの人々が経験していた、飢饉や干ばつは、イスラエルの人々が立ち返るようにと神さまが送った警告の合図だった。
その他にも、農作物の病気や疫病など、色んな問題がイスラエルを襲っていた。
それがなぜなのかということを、人々はもっと考える必要があった。
様々な災いは、神さまが人々を懲らしめるために与えている罰だとも言えるだろうが、それはつまり神さまの護りから人々が離れたことを意味している。
神さまが積極的に人々を懲らしめようとしているというよりは、人々の方が神さまから離れ、護りから外れてしまったのだ。
神さまの護りがなければ、私たちがこの世界で生き抜いていくことは厳しく、難しい。
しかし、そのような困難を経験する間に気づくのでなければ、私たちはついに、本当の裁きを受けるときが来る。
アモス 4:12 それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」
再三の警告に耳を傾けなかったイスラエルは、やがてついにアッシリア帝国の侵略を受けて滅びることになる。
私たちは、そのような状態になる前に立ち返る必要がある。
③ あなたの神に会う備えをせよ
私たちが、いつでも神さまから離れることなく、つねに神さまに従う者として歩むことができていたらどれほどいいだろう?
でも残念ながら、私たちは自己中心的な考えに陥り、神さまの声を忘れてしまうことがある。
そんな時に私たちは、神さまの護りから外れてさまざまな問題に直面することがある。
その問題の解決だけを考えるなら、私たちは割と簡単にそれぞれの問題を乗り越えることができるかもしれない。
しかし、本当の問題はそれを解決することではなく、それを通して神さまが示していることにあるのかもしれない。
とは言え、全ての問題が神さまからの警告というわけではもちろんない。
私たちはその問題がどこから来ているのか、見極める必要がある。
大切なのは、いつでも、どのような時でも、私たちが神さまとの関係を確認してみるということ。
そこに起こっている状況が良くても悪くても、神さまから離れていた自分に気づいたなら、すぐに立ち返ることだ。
どうせ神さまと会うなら、それは裁きの場まで顔を背けるのではなく、神さまとともに喜びの中を歩もうではないか。