イザヤ6:1-8、7:1-14 『「静かにして、恐れてはならない」―インマヌエル(神われらと共にいます)― 2021/11/07 小西孝蔵

1.イザヤ書について
・これまでの私のメッセージでは、旧約シリーズで、モーセ、ヨシュア、ルツ、サムエル、ダビデ、ソロモン、エリヤ(上)・・・を取り上げてきた。最近では、健太郎先生が小預言書、厚見さんがエレミヤ、野村さんがエリヤ、今回から私がイザヤを取り上げることに。預言書に集中したのは、期せずして一致、神様のお計らい?と思う。

・イザヤ書―前半39章(主として、イザヤ自身の手による、前700年前後)、―後半27章、合計66章、これは、旧約と新約の書の数と一致(偶然?)-40~55章は、第2イザヤといい、100年後のバビロン捕囚時代、56~66章は、第3イザヤといい、200年後の捕囚後の時代)

・イザヤ―「イザヤ」は、ヘブライ語で、「ヤハヴェは救い」という意味。
①エルサレム出身の貴族。田舎出身の預言者エリヤやアモス、ミカとは違うが、神は、身分を問わず、選ばれるようだ
②2人の子どもの父親、名前がユニーク(神によって命名、一人は、「残れるものが帰ってくる」(「シュアル・ヤシャブ」)、もう一人は、「速やかに略奪者が来る」(「マヘル~バズ)という名前。子供がかわいそう?
③イザヤは、ウジア王、ヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王の4代にわたって活動(パワポ資料―歴代年表)。イスラエルは、ヤロベアム2世の時が絶頂期、同じ時期に、ユダは、ウジア王の時(紀元前791年~739年)が絶頂期。
④経済的繁栄もあってか、民は、神に反抗を繰り返す。偶像崇拝の蔓延、上層階級による貧しい人の虐げ、貴族による深酒、賄賂の授受など・・。それに対して、イザヤは、神は、悔い改めて神に立ち帰らなければ、民は裁かれる、国は滅ぶと預言。
・本日のメッセージでは、大きく次の三つのことが示された。(要旨参照)

2.神様の召命(パート1)

〇イザヤ書6章1~8節
「6:1ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、・・・ 6:2その上にセラフィムが立ち、・・・ 6:3互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。・・・ 6:5その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で・・・わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」6すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。7彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」・イザヤは、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という、セラフィムと呼ばれる天使の声が鳴り轟く。これを聞いて、イザヤは、滅びるばかりだとして、自らの罪を告白。すると、天使は、燃えさかる炭をイザヤの口に当てて、罪が赦されたことを宣言。

・預言者は、人の罪を裁く神の代弁者だが、先ず、自分が徹底的に低くされなければ神様の御用はできない。私たちは、自分のことを棚に上げて、人を攻撃するような間違った正義感を持ちがち。人を裁く前に自分が神の前に裁かれ、罪を赦していただき、潔めていただく必要がある。私たちも、自分の罪を神様に赦していただき、弱さを認めて、神の力に代えていただく時に、初めて神からの使命を果たすことが出来る。

〇イザヤ書6章8節
「8私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」」
・神様から、「誰を遣わそうか」と問われた時、「ここに私がおります」と答えて、その声に素直に聞き従うことできると願う。弱い、不完全な自分にできるはずがないと思っても、神様が聖霊によって、罪を潔め、力を与えて下さるのだから、出来ると信じる。

〇イザヤ書6章9節
「9 すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と」

・「聞け、しかし悟るな」というのは、矛盾した言い方?この個所は、マタイによる福音書13章14節で次のように、引用されている。「聞くには聞くが、決して悟らず、見るには見るが、決して認めない」神は、心の底では悔い改めを望んでいるが、あえて強く突き放している。

・イザヤの召命は、イスラエルの民の神からの背きと堕落を指摘するもので、民の悔い改めは期待できない、王にも民にも嫌われる役回りで、成果なしに終わることが多い、。イザヤは、40年間、イスラエルの不信仰と戦ったが、無視され続けた。まさに預言者は、「悲哀の人」ともいえる。それでも神様の御旨を伝えることに意義がある。神の栄光を現すことだけがすべて。

・私たちが、福音を伝えようとしても、キリストを受け入れる人は、極めて少ない、でも、失望する必要はない。神様は、述べ伝えよと命ぜられるが、必ず、残れる人(remnant)、即ち、神に立ち帰る人を用意してくださる。大きな慰めでもある。

・また、預言者のように、私たちも周りの人に理解されないことがある。例えば、職場などで、不正や理不尽なことに対し、真実を明かそうとする時、あるいは、大多数の人が、世の中の流れのまま無難に生きようとする中、あえて新しいことにチャレンジしようとする時には、多くの人から猛反対を受けることがある。しかし、神様に信頼して、祈ってその声に聞き従う時には、不思議と平安と力を与えられる。

3.静かにして、恐れてはならない(パート2)
・アハズ王は、アラムの王、即ち、シリア王のレチン、エフライムはイスラエル王のペカ、その両者が手を組んだシリア・エフライム連合軍に攻められ、王も民も不安に駆られて揺れ動いていた。ペリシテ人やエドムからも攻められ、まさに四面楚歌。(パワポ資料-地図-シリヤ・エフラエム戦争)

〇イザヤ書7章1~2節
「1ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時代、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、戦いのためにエルサレムに上って来たが、これを攻めきれなかった時のことである。2ダビデの家に「アラムがエフライムと組んだ」という知らせがもたらされた。王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ。
こうした中、アハズ王もユダの民も、右往左往、まさに、わらをもつかむ思いであった。イザヤは、神様の命令により、アハズ王に直言した。

〇イザヤ書7章3~4節
「3そのとき、主はイザヤに言われた。「あなたと、あなたの子シェアル・ヤシュブは、・・・アハズに会い、4彼に言え。『気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。』」

この個所の口語訳では、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。」 英語では、”Be careful, keep calm, and do not be afraid”静かにして祈り、恐れず神の声に耳を傾けなさいということ。

・しかし、この神の言葉を伝えたイザヤの呼びかけに、アハズは、耳を貸そうとしなかった。シリア・エフラエム連合軍の攻撃に対し、アハズの取った行動は、神に助けを求めず、アッシリアに助けを求めるということだった。実は、神は、イスラエルの不信仰を裁こうとして、アッシリアを用いようとしていた。そのアッシリアに助けを求めること自身が、神の御心を無視した愚かな政治・外交判断であった。(パワポ資料-地図-アッシリヤの侵略)

〇列王記下16章
「 16:7そこでアハズは使者をアッスリヤの王テグラテピレセルにつかわして言わせた、「わたしはあなたのしもべ、あなたの子です。スリヤの王とイスラエルの王がわたしを攻め囲んでいます。どうぞ上ってきて、彼らの手からわたしを救い出してください」。 16:8そしてアハズは主の宮と王の家の倉にある金と銀をとり、これを贈り物としてアッスリヤの王におくったので、 16:9アッスリヤの王は彼の願いを聞きいれた。すなわちアッスリヤの王はダマスコに攻め上って、これを取り、その民をキルに捕え移し、またレヂンを殺した。」

・その結果、シリヤは滅ぼされ、イスラエルの王ペカは、ホシュアによるクーデターによって殺された。そのすぐ後、イスラエルは、サルゴン2世率いるアッシリアに滅ぼされた(紀元前722年)。一方、アハズ王のユダは、アッシリアに滅ぼされることは免れたものの、政治的にも、宗教的にもアッシリアに従属することになった。

・現代の日本で言うなら、例えがいいかどうかは別にして、企業がGAFFAといったグローバル企業から買収を迫られるような大事件。アマゾンにつくか、ウォルマートにつくかといった状況にも似ているかも(?)。

・我々も大きな試練が来た時、心が右に左に揺れ動き、不安でたまらないことがある。いくつかの選択肢の中で、どちらがいいのか、しばしば右往左往してしまう。そんな時、先ず、「静かにし、恐れてはならない」のみ言葉を信じ、神様の前に静まって、祈って、判断を求めることが大事。自分ではどうあがいても解決できない問題がのしかかって、お手上げ状態の時、こざかしい知恵で切り抜けようとしない方がいい。問題から逃げても追いかけてくる。正面から受け止めて、主に知恵と力を与えて下さるよう、祈りつつ行動することが大事。「立ち帰って落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ書30章15節)

4.神われらと共にいます(パート3)
・アハズ王は、アッシリアの助けを借りないで、神により頼みなさいというイザヤの預言に従わなかった。イスラエルの民も神に立ち帰らなかった。その結果、神様に裁かれれ、アッシリアの後に勢力をもったバビロンによって滅ぼされ、捕囚とされた。このように、この世的には絶望しかない状況で、メシアの到来と神の国実現の預言がなされた。

〇イザヤ書7章14節
「 7:14それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルとなられる。」

インマヌエルは、ヘブライ語で「神われらと共にいます」という意味。私たちの前に、この世の勢力がいかに大きいものであっても、神は、常に私と共におられる、だから揺るぐことはない、神のみ旨が成就されることに希望と平安を持って生きることが出来る。

・この聖書箇所は、マタイ1章23節でヨセフに対しキリスト誕生を告げ知らせる天使の言葉として引用されている。もう一か所、イザヤ書9章の箇所もメシアの誕生を預言している。これらの個所は、ヘンデルのメサイア第1部で歌われる有名な言葉でもある。

〇イザヤ書9章5節
「5ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」 もう一か所、11章にもメシア預言(ロマ書15章でも引用)がある。

〇イザヤ書11章1~2節 「11:1エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、11:2その上に主の霊がとどまる。」

・神様は、イスラエルの切り株の後に、残れる者、そしてその中に、救い主を用意された。イエス・キリストは、まさに、十字架の死と復活によって、この世に勝利され、神の国による主権が確立した。神様の義と愛による支配があるから、イエス様と共に歩むときに、敵、サタンの攻撃からも守られる。そこには、本当の平安と感謝で満たされる。

・何があっても、神様と共に歩む限り、見捨てられることはない。孤児にはならない。最後に、イザヤの預言通り、ヨハネによる福音書14章の中で、キリストが十字架の死を前にして弟子たちに言われた言葉を読んで終わります。

〇ヨハネ14章27節
「 14:27わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。16章33節「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

5.本日のまとめ
〇イザヤ書について
1)神様の召命(罪からの潔めと神から与えられる使命)
2)静かにして、恐れてはならない(悔い改めて神のもとに立ち帰る)
3)インマヌエル預言(神われらと共にいます)
〇心を騒がせるな(ヨハネ14章)

(祈り)