アモス5:1-6:14 アモス3「公正と正義」 2021/11/13 けんたろ牧師

アモス 5:1-6:14
5:1 イスラエルの家よ、このことばを聞け。私はあなたがたについて哀歌を歌う。
5:2 おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女は自分の地に捨て置かれ、これを起こす者もいない。
5:3 まことに、【神】である主はこう言われる。「イスラエルの家の、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残る。」
5:4 【主】はイスラエルの家にこう言われる。「わたしを求めて生きよ。
5:5 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。」
5:6 【主】を求めて生きよ。そうでないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下る。火はこれを焼き尽くし、ベテルにはそれを消す者がいなくなる。
5:7 彼らは、公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。
5:8 すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は【主】。

牧者だったアモスは、神さまの言葉を北イスラエルの人々に伝えるためにユダ王国からやってきた。
アモス書は全体的に詩文で書かれているので、私たちにはその意味を受け取りにくいが、私たちにとっても大切な事を伝えてくれている。

① 主を求めて生きよ
北イスラエル王国の人々は、神を礼拝しなかったわけではない。
ベテルとダンには神殿が建てられ、ギルガルやベエル・シェバには高き所と呼ばれる礼拝の場所が作られ、人々は熱心に神を礼拝していた。
しかし問題は、北イスラエル王国の最初の王ヤロブアムの時代より、自分たちで勝手に神殿を建て、勝手な方法によって礼拝を捧げていたこと。
だからこそ、神さまはアモスを通してこのように伝えた。

5:5 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。」

人々が求めていたのは、神さまではなく「霊的な安心が得られる場所」だった。
そしてそこでいけにえを捧げることで、富や栄光、祝福を受けようとしていたのである。
それは、偶像崇拝に他ならなかった。
そして偶像崇拝は自己中心的な信仰であるゆえに、そこには平等や正義というものが欠如してしまっている。

5:7 彼らは、公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。

神の民として、福音を伝える役目を受けていたイスラエルがこんな状態になってしまうなら、イスラエルが裁きを得ないまま存在し続けることなどありうるだろうか?
善いいものをもたらすために選ばれた人々が悪いものをもたらすというなら、神の選びはもう取り去られてしまうのではないか?

5:6 【主】を求めて生きよ。そうでないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下る。火はこれを焼き尽くし、ベテルにはそれを消す者がいなくなる。

「【主】を求めて生きよ」それが答えだ。
まだ間に合う。
しかし主を求めず、祝福という偶像を求めるなら、その先にあるのは神の裁きである。
イスラエルは裁きに向かって進んでいた。

② 公正を水のように、義を絶えず流れる谷川のように
アモスはこのようにも告げている。

アモス 5:24 公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。

この章のテーマにもなっている「公正と義」、それは絶えず流れる谷川のように私たちから流れ出し、世界中を潤していくべきもの。
しかし、イスラエルはむしろ、それを台無しにしてしまった。

アモス 6:12 馬が岩の上を走るだろうか。人がそこを牛で耕すだろうか。しかしあなたがたは、公正を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた。

だから、本来イスラエルが受けるべき祝福は、もう受けることができない。
それどころか、それは裁きへと変えられるのだとアモスは言う。

アモス 5:18 ああ。【主】の日を切に望む者。【主】の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。

「主の日」とは、本来イスラエルが待ち望む幸いの時。
救い主が来て、イスラエルを救ってくださる日のこと。
しかし神さまから離れてしまうなら、それはもう祝福の時ではない。
神さまがイスラエルを裁き、取り除かれる日となってしまうのだ。

③ 敵対する国
経済的に成功し、富を得、人生は安泰だと信じるこの時代に、神さまはイスラエルに敵対する国を起こすと言われる。

アモス 6:14 「しかし、イスラエルの家よ、今わたしは、あなたがたに敵対する一つの国を起こす。──万軍の神、【主】のことば──彼らはレボ・ハマテからアラバの水無し川まで、あなたがたを虐げる。」

ここにある「敵対する国」とはアッシリア帝国のこと。
アッシリア帝国は侵略の手を緩め、まさにこの時代にはおとなしくしていたが、この数年後ティグラト・ピレセル3世が即位し、アッシリア帝国は周りの国々を呑み込んでいく力を受けた。
その勢いは留まることなく、紀元前722年にイスラエルを倒し捕囚してしまった。

私たちはどうだろう?
神を熱心に礼拝しているようでも、実は自分の願い通りにさせる偶像崇拝になってしまっていたりはしないだろうか?
私たちの行動が、公正と正義に繋がっているだろうか?

すべてのカギは、いつも通り神さまとの関係の中にある。
「主を求めよ。」
いつでも、どんな時でもそこに答えがあるのだ。