ホセア4:1-6:11 ホセア2『神が喜びとするもの』 2021/12/05 けんたろ牧師

ホセア 4:1-6:11
4:1 イスラエルの子らよ、【主】のことばを聞け。【主】はこの地に住む者を訴えられる。この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもないからだ。
4:2 呪いと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。
4:3 それゆえ、この地は喪に服し、そこに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに衰え果て、海の魚さえも一掃される。
4:4 「だれも口論してはならない。だれも人を責めてはならない。あなたの民は、祭司と口論する者のようだ。
4:5 あなたは昼つまずき、預言者も、あなたとともに夜つまずく。わたしはあなたの母を滅ぼす。
4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる。
4:7 彼らは増えるにしたがって、ますますわたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。
4:8 彼らは、わたしの民の罪のきよめのささげ物を貪り食い、民の咎に望みをかけている。
4:9 民も祭司も同じようになる。わたしはその生き方のゆえに彼らを罰し、その行いのゆえに彼らに報復する。
4:10 彼らは食べても満たされず、姦淫しても増えることはない。彼らが【主】を捨てて、姦淫を続けるからだ。

ホセア書1~3章では、ホセアの人生を通して、妻ゴメルとの関係の中に象徴される神さまとイスラエルの関係を見てきた。
4章以降、ホセアは神さまの思いを詩文に乗せて伝えている。

① 求めるべき知識
イスラエルは、なぜ滅ぼされようとしているのか?
それは、イスラエルには信じるも誠実さもなく、神を知ることもないから。

4:1 イスラエルの子らよ、【主】のことばを聞け。【主】はこの地に住む者を訴えられる。この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもないからだ。

4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる。

「知識」というと、何か勉強して覚えなければならないことのように私たちは感じてしまうが、そうではない。
ここで「知識」と訳されている言葉は、情報や原理のことではなく、個人的な関係として相手を知ること。
つまり、ここで求められているのは、神さまとの個人的な関係を持つことである。

私たちは、今神さまを求め、知り、関係を結び、深めるならば、私たちは神さまの導きを受け、神さまとともに歩む人生がそこに始まる。
そして私たちがそこに留まる限り、その関係は永遠に入ることが約束されている。
神さまの側はそのために様々なアプローチをしてきたし、それは現代に生きる私たちに対しても同じこと。
しかし、イスラエルは神さまを退け、偶像を求めてしまった。
イスラエルに下ろうとしている裁きは、神さまの護りを失ったものが辿る末路なのだ。

② さあ、主に立ち返ろう
こうしてイスラエルは、もう裁きを免れない所まで進んでしまっていた。
でもそれは、滅ぼすことが目的なのではない。

ホセア 5:15 わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」

この大変な苦しみの中で、イスラエルが神さまを求めるようになること、それが神さまの最後の願いであり、イスラエルの希望だった。
イスラエルは神さまの護りを失って確かに滅ぼされる。
しかし滅ぼしつくされるのではなく、もう一度立ち直るチャンスが与えられること。
ホセアはそのことを希望としてイスラエルを励まそうとしている。

ホセア 6:1 さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。
6:2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。

③ 神が喜びとするもの
では、イスラエルはどうすればよかったのか?
そして、もう一度建て直されるときが来るなら、その時にどうなればいいのか?
ホセアはこのように続けている。

ホセア 6:3 私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。

それは、今度こそ神さまを個人的に知り、関係を築くことに他ならない。
私たちがそれを求めるなら、主は私たちを雨が地を潤すように癒してくださると言う。
そして神さまは、このように言って、神さまが求めているのは何かということと、今のイスラエルの問題を明らかにしている。

ホセア 6:6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。

これまでも、イスラエルは神さまに礼拝を捧げていたし、そこではしきたりの通りにいけにえを捧げていた。
そのために、自分たちの神殿や礼拝所を作ったのだと彼らは言うだろう。
でもそれは、本当の意味で神さまを求めたものではなかった。
彼らが求めていたのは「宗教儀式」であり、「自分の願いを叶えるための法則」である。

祝福してくれるなら礼拝対象は誰でもよかったし、方法なんてどうでもよかった。
彼らは、真の神に礼拝を捧げる一方でバアルも崇めていた。
神の教え(トーラー)をないがしろにし、表面的な信仰心だけを取り繕っていた。
そこには、人への愛も、神への愛もない。
自分が利益を受け、繁栄し、祝福されることだけを求めていたのである。

クリスチャンである私たちにも同じことが言える。
私たちは何を求めているだろうか?
日曜日の決まった時間に教会に集まり、そこで何をするか、形式は守られているかということにどれだけこだわり、表面的な体裁だけ取り繕っても、心が伴わなければそれは神の喜びとはならない。
私たちが心から神を知り、その関係を深めることを神さまは喜ばれるのだ。

私たちは自分の心を顧みて、私たちが本当に求めているのは何かを見直してみる必要がある。
そして本当に神さまを向いているのでないなら、もう一度最初から、神さまを求めるところから始めようではないか。