ホセア7:1-9:17 ホセア3『癒しても変わらない』 2021/12/12 けんたろ牧師
ホセア 7:1-9:17
7:1 「わたしがイスラエルを癒やすとき、エフライムの咎、サマリアの悪はあらわになる。彼らが偽りを行い、盗人が押し入り、外では略奪隊が襲うからだ。
7:2 しかし、彼らは考えもしない。わたしが彼らのすべての悪を覚えていることを。今、彼らの悪行は彼らを取り囲んで、わたしの面前にある。
7:3 彼らは悪事によって王を、偽りによって首長たちを喜ばせる。
7:4 彼らはみな姦通する者。パンを焼くときの燃えるかまどのようだ。生地がこねられてから、ふくらむまでは、燃え立つことをやめている。
7:5 われわれの王の日に、首長たちは酒の熱で気分が悪くなり、王は嘲る者たちと手を握る。
7:6 彼らは心をかまどのようにして、陰謀を企てる。夜通し、パンを焼く者は眠るが、朝になると、かまどは燃え立つ火のように燃えるのだ。
7:7 彼らはみな、かまどのように熱くなって、自分をさばく者たちを食い尽くす。自分の王たちもみな倒れる。彼らのうちだれ一人、わたしを呼び求める者はいない。
ホセア書から3回目のメッセージ。
ホセアは神の裁きが起こり、絶望的な状況になっても、悔い改めて神に立ち返ることの大切さを説いた。
そして、神さまが喜ぶのは表面的な宗教儀式などではなく、心から神さまとの関係を築き直していくことだと教えた。
確かにイスラエルは、危機が起こるたびに神に立ち返り、悔い改めたように見えた。
しかし、それは心からの悔い改めではなかったことを神さまは見抜いている。
① 神が癒すとき
7:1 「わたしがイスラエルを癒やすとき、エフライムの咎、サマリアの悪はあらわになる。彼らが偽りを行い、盗人が押し入り、外では略奪隊が襲うからだ。
イスラエルが自らの罪のために危機的状況に陥り、その時になって神さまに立ち返って助けを求めるたびに、神さまはイスラエルを信じ、赦し、癒してきた。
しかし、癒された瞬間からイスラエルの反逆は始まる。
痛みがなくなれば神から離れ、イスラエルの悪はむしろ癒された時にあらわになる。
そうして、彼らはまた罪を重ね、かまどの中でふくらむパンのように心が大きくなっていく。
それを自らの力、自らの功績と勘違いして、自らを誇り、傲慢になっていく。
しかし、パンはそのままかまどの中で焼き尽くされようとされていた。
神さまはもう、助けてくれない。
イスラエルの側が離れてしまったのだから。
ホセア 7:13 わざわいだ、彼らは。わたしから離れ去ったのだから。彼らは、踏みにじられるがよい。わたしに背いたのだから。わたしが贖い出そうとしているのに、彼らはわたしに向かってまやかしを言う。
② 偽りの信仰
こうしてイスラエルが再び危機的な状況に陥る時、イスラエルはまた神に立ち返り主に声を上げるだろう。
ホセア 8:2 彼らはわたしに向かって叫ぶ。『わが神よ、私たちイスラエルは、あなたを知っています』と。
しかし、彼らの行動はその言葉と矛盾していた。
イスラエルは神さまが任命していない王を勝手に立て、祭司を勝手に任命し、勝手に神殿を建て、神ではない者にいけにえを捧げた。
「神を知っている」と言葉では言いながら、求めていたのは神ではなかった。
だからそこにあるすれ違いはどんどん大きくなっていく。
ホセア 8:12 わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののように見なす。
8:13 わたしへのささげ物のいけにえとして彼らが肉を献げて食べたとしても、【主】はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する。彼らはエジプトに帰る。
ここに書かれている「エジプトに帰る」とは、物理的にエジプトに行くということよりも、奴隷だった時代に逆戻りするということ。
アッシリア捕囚以降のイスラエルは、まさに奴隷のようになり、解放されることは2度となかった。
③ 神さまのリアル
ホセアがこの預言をしたのはヤロブアム2世の時代で、北イスラエルがもっとも繁栄していた時代。
しかし、ひと時の祝福で喜んでいる場合ではないと神さまは伝えている。
ホセア 9:1 イスラエルよ、喜ぶな。諸国の民のように楽しむな。あなたは自分の神に背いて姦淫したからだ。あなたはすべての麦打ち場で姦淫の報酬を愛した。
なぜなら、パンがおいしく膨らんでいるように見えても、かまどの中で焼き尽くされるだけだから。
いや、元々神さまはイスラエルを愛していた。
そのことに偽りはない。
ホセア 9:10 「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見出し、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。バアル・ペオルにやって来たとき、彼らは恥ずべきものに身を委ね、自分たちが愛しているものと同じように、彼ら自身も忌まわしいものとなった。
これは、まさしくホセアが妻ゴメルを愛していたのに裏切られた状況に酷似している。
愛していたからこそ、裏切られた傷は大きく、苦しみも大きい。
だからこそ感情が揺さぶられ、怒りに我を忘れてしまう。
ホセア書を始め、預言書には神さまの心が右に左に揺れる様子が見て取れる。
愛と憎しみ、怒りと赦し。
相反するその心が、神さまのリアルを表している。
神さまはそのようにイスラエルを愛していたし、私たちへの愛も同じだ。
神さまの助けが必要だから、苦しくなって神さまを呼び求めることは私たちにもある。
しかし、苦難困難がなければ神さまを求めないということになってはいないだろうか?
そして、神さまを求めている時にも、実は神さまご自身との関係を築き上げるのではなく、表面的な儀式や行いで安心してしまってはいないだろうか?
ましてやそれが、神さまご自身ではなく別のものに入れ替わってしまっていたりはしないだろうか?
イスラエルが神さまを苦しめたように、私たちも神さまを苦しめてしまっていないか?
神さまの優しさに甘えて、「どうせ赦してくれる」と思っていないだろうか?
本当に神さまを愛するなら、私たちは神さまの心を揺さぶらず、心から愛するものでありたいものだ。