イザヤ30-39章「立ち帰って静かにしているならば救われる」ー預言者イザヤとユダの王ヒゼキヤ- 2022/01/16 小西孝蔵

1.前回のお話

・健太郎先生の最近のメッセージ箇所は、ミカ書。イザヤは、ミカとほぼ同時代の同じユダの預言者。

・イザヤは、ユダ王国の王、ウジア、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの4代にわたって約60年間活動した預言者。ウジア王の時、ユダ王国は、絶頂期、アハズ王は、神に反抗、偶像崇拝に走る。不正や賄賂、虐げや酩酊が横行。

・そうした中、ユダ国は、シリア・エフラエム(北イスラエル)連合軍に攻められて、アハズ王は不安に駆られ、「静かにして、恐れてはならない」というイザヤの言葉に反して、アッシリアに助けを求めた。その結果、ホシェア王の時、シリアに続きもイスラエルもサルゴン2世に率いるアッシリアに滅ぼされた。イスラエルの10部族、その代表はエフライム族であったが、その後エルサレムに戻ることなく、失われた10部族として、世界に散らされた悲運の歴史の始まりでもあった。

・この時、ユダの国は、滅ばされはしなかったが、アッシリアに政治的にも宗教的にも従属させられることになった。そして、アハズ王の息子ヒゼキヤが後を継ぐことになったところから今日のお話。

2.民の背信とヒゼキヤ王の宗教改革

・ヒゼキヤは、父アハズが拝んだアシュラ像を切り倒し、偶像崇拝を一掃した。神の前に正しく歩んだとされ、歴代のユダの王の中で「ヒゼキヤのようにイスラエルの神、主を頼りにしていた王は、後にも先にもいなかった」とある。神殿を浄め、律法に従っていけにえを捧げ、過越しの儀式を復活させた。(列王記下18章など参照。)

・北イスラエルが前722年滅ぼされるたのに対し、南ユダが前586年まで、なお130年にわたって国が続いたのは、神の御心であったと同時に、ヒゼキヤ、ヨシアという神の前に正しく歩もうとした善き王様がいたからともいえる。(パワポ―年表)

・宗教的儀式においては、律法に忠実な形で守ることになっても、心から神に従うこととは別の問題。たとえ、ヒゼキヤはその意思があっても、民の心は変わらず、神から離反する。キリストは、イスラエルの民の不信仰について、イザヤ書29章13節を引用して次のように話された。

「15:7偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、15:8『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。15:9人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。(マタイによる福音書15章7~9節)

口先だけ神を敬うということを私たちもしていないでしょうか。外見クリスチャンらしく生きることと神様の声に聞き従うこととは、別問題。

3.ヒゼキヤの過ちとイザヤの諫言

①ヒゼキヤの陥った大きな過ちは、神の声を聞いて神の力に依り頼むことをせず、エジプトに助けを求めたこと。この世の勢力により頼むということは、よくありがち。神から離れ、自分の力により頼み、神を信頼しないことが罪。

〇イザヤ書30章「30:1主は言われる、そむける子らはわざわいだ、彼らは計りごとを行うけれども、わたしによってではない。彼らは同盟を結ぶけれども、わが霊によってではない、罪に罪を加えるためだ。

30:2彼らはわが言葉を求めず、エジプトへ下っていって、パロの保護にたより、エジプトの陰に隠れようとする。・・・30:7そのエジプトの助けは無益であって、むなしい。それゆえ、わたしはこれを「休んでいるラハブ」と呼んだ。」

・ラハブは、エジプトのナイルに住むと言われるカバのような動物を指す。水のなかにいて何もしない、何もあてにならないエジプトの象徴に使われている。

・小国の悲哀。大国のはざまでの外交は大変難しい。現代の外交・防衛政策も似たようなことがありうる。人知では限界のある難しい判断において、国の指導者が正しい政策判断が出きるよう、祈ることも大事。

②もう一つのヒゼキヤの過ちは、エジプトと同盟関係を結んでアッシリアを倒そうとするバビロンの誘いにも乗ってしまった。彼の富や財宝をアッピールして、バビロンの関心を引き付けようとした彼の浅はかな戦略は、厳しくイザヤに批判された。

〇イザヤ書39章「39:1そのころ、バラダンの子であるバビロンの王メロダク・バラダンは手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これはヒゼキヤが病気であったが、直ったことを聞いたからである。 39:2ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった。」

・この聖書箇所は、この後出てくるアッシリアのセナケリブによるエルサレムへの侵攻以前の記事であるが、イザヤは、やがては、ヒゼキヤの軽率な行動に神の審判が下るとして、ヒゼキヤに「見よ、王宮にあるものすべてがバビロンに運び去られる日がやってくると預言した。

③このように、ヒゼキヤとユダの民が神様に頼らず、エジプトやバビロンに頼ろうとする不信仰に対して、イザヤは、こう預言した。

〇イザヤ書30章「30:15主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」。

・神は、イザヤを通じて、神こそが救い、神に立ち帰ることをヒゼキヤとユダの民に呼び掛けられた。“In returning and rest shall ye be saved, in quietness and confidence shall be your strength,”(欽定訳)、新改訳の旧版では、「立ち帰って静かにしているならばあなた方は救われ、落ち着いて、信頼すれば力を得る」とある。先ず、神様の元に立ち帰って、神様との関係を取り戻しなさいという呼びかけ。しかしながら、ヒゼキヤとユダの民は、それを拒んだため、神の厳しい裁きと試練が与えられた。

・イザヤ書30章「30:16かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。」

・アッシリア軍は、強力な騎馬を擁しているので、エジプトの戦車部隊に頼ろうとしたが、何の頼りにもならなかった。

4.アッシリアの攻撃とヒゼキヤの祈り

・紀元前701年、ヒゼキヤとユダの民の背信に対して、神は、アッシリアを用いて裁こうとされた。アッシリアのセナケリブ王が勢力を増し、ユダのすべての町々を攻め滅ぼして、エルサレムを包囲した。(パワポ―地図)北イスラエルがアッシリアに滅ぼされてから約20年後の出来事であった。将軍ラブシャケは、エルサレムの住民にユダの言葉でわかるように降伏を呼び掛けた。いよいよ、神の裁きが示されようとした。

〇イザヤ36章「36:1ヒゼキヤ王の第十四年に、アッスリヤの王セナケリブが上ってきて、ユダのすべての堅固な町々を攻め取った。・・・36:3この時ヒルキヤの子である宮内卿エリアキム、書記官セブナおよびアサフの子である史官ヨアが彼の所に出てきた。36:4ラブシャケは彼らに言った、「ヒゼキヤに言いなさい、『大王アッスリヤの王はこう仰せられる、あなたが頼みとする者は何か。 36:5口先だけの言葉が戦争をする計略と力だと考えるのか。あなたは今だれを頼んで、わたしにそむいたのか・・」

・絶対絶命に追い込まれたヒゼキヤは、心を入れ替えて、神に祈って助けを求めた。そして、イザヤに神に助けを求める祈りをするように頼んだ。

〇イザヤ書37章「37:1ヒゼキヤ王はこれを聞いて、衣を裂き、荒布を身にまとって主の宮に入り、 37:2宮内卿エリアキムと書記官セブナおよび祭司のうちの年長者たちに荒布をまとわせて、アモツの子預言者イザヤのもとへつかわした。 37:3彼らはイザヤに言った、「ヒゼキヤはこう言います、『きょうは悩みと責めと、はずかしめの日です。胎児がまさに生れようとして、これを産み出す力がないのです。』」

・神は、ヒゼキヤの祈りを聞きられ、ユダの民を憐れまれた結果、エルサレムを包囲していた18万5千人の兵士は、神の使いに打たれて死んだ。疫病だったのかも知れない。セナケリブもニネベに帰ってしばらくしてから息子に殺された。

・このように、ヒゼキヤは、神に立ち帰ることによって、危機一髪、滅びから免れたが、彼の信仰は、アップダウンの大きいものであった。また、セナケリブの侵入の前のこと、ヒゼキヤは、死に至る病にかかったため、主に祈り、涙を流して激しく泣いたとある。この時も神はヒゼキヤの祈りを聞き入れ、病を癒され、その後15年間も生き永らえた(イザヤ書38章参照)。腫物とあるので、今でいう「がん」だったかもしれない。私たち自身に置き換えてみると、似たようなことをしているのではないか。

5.試練と信仰

①仕事と信仰
・私たちは、平穏に見える日常生活において、いろんな問題をかかえつつも、どこかで何とかなると考え、神様から離れがち。大きな問題に直面しても、この世の力や過去の自分の経験・知識に頼って解決しようとして行き詰まることがしばしば。本当の解決方法が与えられるまでは、心に平安がない。神に立ち帰って、神の知恵を頂くことが最終的な解決になる。

・私の拙い経験で、かつて不眠不休の仕事を余儀なくされ、自分には手に負えない責任を任されたこともあった。ある時、何千人という組織の将来の存続のためには抜本的改革が必要だが、他方、人員整理をすると働く人の生活を奪うことになる、その矛盾する二つの課題をどう解決するかという、苦渋の選択を迫られたこともあった。毎日、職場に入る瞬間に「主よ助けてください」と祈って、戦いが始まり、夜遅く職場を出るときに、やっと我に戻って「主よ守られたことを感謝します」と言って一日が終わる日々が続いた。絶えず祈り、すべてのことに感謝することが大事。

・そうした時に与えられた言葉が、イザヤ書30章15節の「あなたがたは立ち返って、静かにしているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(Return to me, and rest – stay calm)という言葉。御心でない方向に行こうとすると不思議とブロックされた。皆さんも様々な試練の中で、悩まれるときにこのような経験をあるのではないかと思います。

②病気と信仰
・また、ヒゼキヤは、死に至る病にかかり、必死に神に祈って、憐みによって病が癒された。私たちも、重い病にかかると動揺し、時には絶望的になったりする。神様は、私たちが悔い改めて神のもとに立ち帰らせるために、時々病を送られる。そのことによって、神様に感謝を忘れていたことに気が付く。最近、私たちも周りにも病に倒れる方々が多い。慰める言葉も失うことがあるが、神様は、愛する子どもに対し、その試練を通して、ご自分の元に引き寄せようとされていると信じている。

6.メシア預言とキリストによる救い

・イザヤは、イスラエルの民の背信の罪を糾弾し、アッシリヤやバビロンによって滅ぼされるという神の裁きを預言、そして神に反抗する諸国民も裁かれることを預言した、裁きによって窮地に追い込まれたユダの民に対して、イザヤは、救い主、メシアの出現を預言し、キリストの到来による希望のメッセージを語っている。イザヤ書7章、9章、11章、32章、33章、35章など、多くの箇所でメシアによる救いを預言している。

・キリストが神の国の王として来られる。キリストの十字架の贖いと復活によって、私たちの罪が赦され、神の国に入る喜びと希望についてイザヤの預言を読んでみたい。

〇イザヤ書35章「35:1荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、35:2さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。・・・35:5その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。35:6その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水が湧いで、さばくに川が流れるからである・・・35:10主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」

この聖書箇所は、ヘンデルのメサイアの第1部でも歌われている。キリストが私たちの罪を贖って、罪と病の束縛から解放してくださる。私の好きな聖書箇所でもある。

・キリストは、イザヤの預言通りに、神の国の王として来られ、洗礼者ヨハネに対してこのイザヤ書35章の箇所を引用し、こう付け加えています。

「死者は、生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」(マタイ11章5節、6節)

と。イエス様の福音は、まさに、本日のタイトル、イザヤ書30章15節の言葉。最後に、ご一緒にこの言葉を新改訳聖書で読んでみたい。「立ち返って、静かにしているならば救われ、落ち着いて信頼しているならば力を得る」
(祈り)