ゼパニヤ1:1-9 ゼパニヤ書『あなたの神は救いの勇士』 2022/02/20 けんたろ牧師

ゼパニヤ 1:1-9
1:1 ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼパニヤにあった【主】のことば。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒゼキヤの子である。
1:2 「わたしは必ず、すべてのものを大地の面から取り除く。──【主】のことば──
1:3 わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。悪者どもをつまずかせ、人を大地の面から断ち切る。──【主】のことば──
1:4 わたしは手をユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。その場所からバアルの残りを、偶像の祭司たちの名を、その祭司らとともに断つ。
1:5 そして、屋上で天の万象を拝む者どもを、また、【主】に誓いを立てて礼拝しながら、ミルコムに誓いを立てる者どもを、
1:6 【主】に従うことをやめた者ども、【主】を尋ねず求めない者どもを断ち切る。」
1:7 口をつぐめ。【神】である主の前で。【主】の日は近い。【主】はいけにえを備え、招いた者たちを聖別されたからだ。
1:8 「【主】であるわたしが獣を屠る日に、わたしは首長たち、王子たち、すべて外国の服をまとった者たちを罰する。
1:9 その日、わたしは罰する。すべて神殿の敷居を跳び越える者、主人の家を暴虐と欺きで満たす者どもを。

ゼパニヤはユダのヨシヤ王の時代に仕えた預言者。
ヨシヤ王の時代にユダは律法による宗教改革が行われ、改善に向かっているように見えていた。
しかしそのただ中で、ゼパニヤは他の預言者と同じように、ユダ王国の罪と裁きをについて預言している。

事実、この後ヨシヤはエジプトのファラオ・ネコに殺され、ユダ王国もこの後から滅亡へと滑り落ちていくことになった。
ゼパニヤ書を通して、私たちはその理由の一端を知ることができる。

① ユダは、神さまとの関係を破壊した
ユダの人々の中には相変わらずたくさんの問題あった。
その問題とは、罪・不品行とも言えるが、それ以上に神さまとの関係を壊す行動だった。

1:4 わたしは手をユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。その場所からバアルの残りを、偶像の祭司たちの名を、その祭司らとともに断つ。
1:5 そして、屋上で天の万象を拝む者どもを、また、【主】に誓いを立てて礼拝しながら、ミルコムに誓いを立てる者どもを、
1:6 【主】に従うことをやめた者ども、【主】を尋ねず求めない者どもを断ち切る。」

偶像崇拝は霊的な不倫であり、姦淫である。
神さまとの関係を最も破壊する罪である。
また、このようにも書かれている。

1:7 口をつぐめ。【神】である主の前で。【主】の日は近い。【主】はいけにえを備え、招いた者たちを聖別されたからだ。

「口をつぐめ」というのは、口をつぐんで神さまと対話しようとしないユダの人々への皮肉である。
さらにこのように続く。

1:8 「【主】であるわたしが獣を屠る日に、わたしは首長たち、王子たち、すべて外国の服をまとった者たちを罰する。
1:9 その日、わたしは罰する。すべて神殿の敷居を跳び越える者、主人の家を暴虐と欺きで満たす者どもを。

神の花嫁であるはずのユダは、その夫を離れて外国人のように振舞い、異教のリーダーたちに従うようになってしまった。
これらは全て、道徳的な問題以上に、神さまとの関係が完全に破壊されてしまっている状態を表している。
神さまはそのことを嘆き、悲しんでいるのだ。

② 主の日
さて、宗教改革が行われたにも関わらず、ユダの罪と裁きについて語られ続けたのはなぜだったか?
ヨシヤの宗教改革で起こったことは、表面的に律法が教育され、ルールが守られていただけで、神さまとの関係は何も変わっていなかったからだ。
律法には熱心でも、神さまを見ようとしないのはヨシヤ自身も同じだった。
だからアッシリア帝国を倒しに来たエジプトの邪魔をして、殺されるという結末を迎えることになる。
そしてユダ王国が迎える末路について、ゼパニヤにはこう記されている。

ゼパニヤ 1:14 【主】の大いなる日は近い。それは近く、すぐにも来る。【主】の日に声がする。勇士の悲痛な叫び声が。
1:15 その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、
1:16 角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。

神さまから離れた先にあるのは、ただ滅びだけ。
それは、人が神さまに背いて善悪の知識の木を食べた時から変わらない。
例え主に選ばれた民であっても、いや祭司として、花嫁として選ばれた民だからこそ、神さまから離れたことへの神さまの嘆きと怒りは大きい。

神さまのこの怒りは、私たちとも無関係ではない。生まれた時から神さまから離れた状態にあった私たちは、本来このような神さまの怒りの元にあったのだ。
その先にあったのは裁きであり、滅び…のはずだった…。

③ 喜び歌え
しかし、他の預言書がそうであるように、ゼパニヤ書も滅びのまま終わるのではなく、救いの希望へと繋がっていく。
3章9節から最後まで、ゼパニヤは神さまが最後に与える救いについて述べている。

ゼパニヤ 3:9 そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。彼らはみな【主】の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。
3:10 クシュの川の向こうから、わたしに願い事をする者、わたしに散らされた者たちがわたしへの贈り物を携えて来る。

神さまから離れ、自己中心と罪の心によって歩む人たちによってユダは主の裁きを受けることになり、その中で多くの人々が痛み苦しみを味わった。
主とともに歩もうとし続けた人たちも、同じようにその大患難を経験したけれど、そこで終わりではなかった。
ふるい分けられたように、主に背き続ける人たちはみな振り落とされて、その先には主とともに歩む人たちだけが残された。
そこに大きな回復が起こり、人々は癒され、力づけられ、本当の幸せが訪れるのだ。

捕囚からの帰還、主イエスさまによる癒しや蘇り、イスラエルという国家の復活は、最後に起こるこの終末の出来事の伏線でしかない。
本当に素晴らしい天の御国は、全ての後に必ず来るのである。
今はまだその時ではない。
でもやがて、全ての人々が喜びに満たされ、悲しみの涙を誰も流さないときが来る。

ゼパニヤ 3:14 娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
3:15 【主】はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、【主】は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。
3:16 その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。
3:17 あなたの神、【主】は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

すべてが終わり、私たちが主の元に帰還するとき、主は私たちのことを大いに喜び、安らぎを与え、私たちのために歌うときが来る。
疲れている人はいるだろうか
痛み、悲しみ、嘆きの中にある人はいるだろうか?
私たちは、ひと時の間その中を通らなければならない。
しかしその先には、主が全てを覆してくださる約束の時が来ることを信じて、心待ちにしていようではないか?