ハバクク1:1-11 ハバクク書『いつまでですか、主よ』 2022/02/27 けんたろ牧師
ハバクク 1:1-11
1:1 宣告。これは預言者ハバククが見たものである。
1:2 いつまでですか、【主】よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。
1:3 なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています。
1:4 そのため、みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです。
1:5 「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、たじろげ。わたしは一つの事をあなたがたの時代に行うからだ。それが告げられても、あなたがたは信じない。
1:6 見よ、わたしはカルデア人を起こす。あの強暴で俊敏な国民だ。彼らは地を広く行き巡り、自分のものでない領土を占領する。
1:7 それは凄惨そのもの。彼らはさばきと宣告を自ら下す。
1:8 その馬は豹より速く、日暮れの狼より敏捷だ。その軍馬は跳ね回り、その騎兵は遠くから来て、鷲のように、獲物にさっと舞い降りる。
1:9 彼らはみな暴虐を行うためにやって来る。そろって顔を前方に向け、砂のように捕らわれ人を集める。
1:10 王たちを嘲り、君主たちを笑いものにし、すべての要塞をあざ笑い、土を積み上げて町を攻め取る。
1:11 こうして、風のようにやって来て過ぎ去る。しかし自分の力を神とする者は、責めを負う。」
どうしていつもこんな目に合うのか、どうしてこんな苦しい状況が続くのかと悩んだことはないだろうか?
神さまがいるなら、どうして助けてくれないのか、どうしてこの世界に悪がはびこるのか?
そんな疑問を抱き、神さまと向き合ったのがハバククという預言者だった。
ハバククは、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされる直前の数十年間に活動していた預言者。
ユダに悪がはびこり、滅びの道へと進んでいき、新バビロニアに滅ぼされていくのを目の当たりにしながら、神さまを叫び求めた。
1:2 いつまでですか、【主】よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。
① いつまでですか、主よ
ハバククは、1章2~4節でユダに起こっている不法について神さまに訴えている。
1:3 なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています。
1:4 そのため、みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです。
ユダがこのような状態にあるのに、何も働きかけず暴行と暴虐が起こるに任せている主に、ハバククは怒りをぶつけている。
それに対する主の応答は、これまでの他の預言書の中で見てきた答えだった。
1章の5~11節が主の応答である。
1:6 見よ、わたしはカルデア人を起こす。あの強暴で俊敏な国民だ。彼らは地を広く行き巡り、自分のものでない領土を占領する。
カルデア人というのは新バビロニアのこと。
バビロン帝国によって、ユダ王国は滅ぼされる。
それこそが裁きだと神さまは語ったのである。
しかしバビロン人はユダヤ人よりももっと悪いのではないか。
ハバククは、そこに突き付けられた新たな苦難に打ちひしがれる。(ハバクク1:12-2:1)
そこにはもっと大きな暴力がはびこり、世界はより悪い場所になっていくだけだ。
ハバククは納得のいかないことだらけだけど、物見やぐらの上に立って、神さまの答えを待つことに心を決める。
ハバクク 2:1 私は、自分の物見のやぐらに立ち、砦にしかと立って見張り、私の訴えについて、主が私に何を語られるか、私がそれにどう応じるべきかを見よう。
② バビロンのわざわい
神さまは、当然のようにそれに対する答えを持っていた。(ハバクク2:2-20)
そこで表される幻を書き記し、人々に告げ知らせるようにとハバククは命じられる。
ハバクク 2:2 【主】は私に答えられた。「幻を板の上に書き記して、確認せよ。これを読む者が急使として走るために。
2:3 この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。
2:4 見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
そで主は、バビロンにはびこる5つのわざわをハバククに示した。
第1に、多額の利子を取って儲ける経済的な悪徳(ハバクク 2:6-8)
第2に、マイホームを得るために不正を行い金儲けをする様子(ハバクク2:9-11)
第3に、強制的な労働で町と富を築き上げるバビロンの不正(ハバクク2:12-14)
第4に、酒に酔い、性的な腐敗によって狂っていく姿(ハバクク2:15-18)
第5に、神を従わせたつもりになって傲慢になる偶像崇拝(ハバクク2:19-20)である。
このような悪逆と罪によって、バビロンもまた裁きを受けて滅びる。
それが神さまによって示された幻だった。
これはバビロンについて書かれた裁きの預言のはずだが、その有様は日本を始め現代の国々にも共通する姿ではないだろうか?
③ ハバククの祈り
ハバクク書の3章はハバククの祈りの言葉とされる。
この祈りの中で示されているのは、世界を創造し、イスラエルをエジプトの脅威から救った神さまの業である。
そこにあるのは、力強く、悪の支配を許さず正義をなす神さまの姿。
そんな神さまの姿を目の当たりにする中で、ハバククの心は希望へと向かっていく。
それは「大丈夫でしょう」というような単なる楽観ではないし、「神さまは善いことだけをしてくださる」というような無邪気な希望でもない。
どんな苦難の中でも、主にあって忘れることのない希望である。
ハバクク 3:17 いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
3:18 しかし、私は【主】にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。
3:19 私の主、【神】は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。
この言葉を通して僕が思い出したのは、こんな聖書の言葉だった。
ロ-マ 8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
目を覆いたくなるような絶望的な状況の中にある時、「なぜですか?」「まだですか?」と神さまに訴えたくなることもある。
しかし主は、そんな状況の中でも善いものをもたらしてくださるのだと私たちは信じることができるのだ。
私たちが直面する困難の中で、神さまが全てを益としてくださるのは、必ずしも生易しいことではない。
しかし、いちじくの木が花を咲かせず、ぶどうの木に実りがないときにも、決して希望を失わず主を待ち望み、喜び踊る信仰を持っていきたいものだ。
神さまは、私たちに高いところを歩ませてくださるはずだから。