ハガイ1:1-11 ハガイ書『心の内に神殿を』 2022/03/06 けんたろ牧師

ハガイ 1:1-11
1:1 ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、【主】のことばがあった。
1:2 万軍の【主】はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。【主】の宮を建てる時は』と言っている。」
1:3 すると預言者ハガイを通して、次のような【主】のことばがあった。
1:4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」
1:5 今、万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
1:6 多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」
1:7 万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
1:8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。──【主】は言われる──
1:9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、得た物はわずか。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。──万軍の【主】のことば──それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っていたからだ。
1:10 それゆえ、あなたがたゆえに、天は露を滴らすのをやめ、地はその産物を出すのをやめた。
1:11 わたしはまた、日照りを呼び寄せた。地にも山々にも、穀物にも新しいぶどう酒にも油にも、地が産み出す物にも、また人にも家畜にも、手によるすべての労苦の実にも。」

これまで読んできた預言書では、北イスラエル王国と南ユダ王国の罪と裁きについて記されていた。
預言の通りアッシリア帝国によって北イスラエル王国が滅ぼされ、BC598年南ユダ王国もついに新バビロニアによって倒され、多くの人々が捕囚によって連れていかれてしまった。

しかし、イスラエルの歴史はこれで終わりではなかった。
これもまた預言者たちに伝えられていたように、ユダの人々はもう一度エルサレムに戻ってくる機会が与えられたのである。
彼らを捕囚した新バビロニアはアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされ、新しくパレスチナ地方の支配者となったペルシアのキュロス王が、ユダヤ人たちがエルサレムに帰ることを許可したのである。
その帰還の旅を導いたのが、ダビデ王の末裔でもあったゼルバベルと、大祭司ヨシュアであった。
エズラ記やネヘミヤ記の中で、このエルサレム帰還のことが記されている。

ハガイは、帰還した人々を励ました預言者の一人だった。
預言書としてはかなり短いが、帰還したユダヤ人たちにとって大切なことを伝えている重要な預言書でもある。

① いつ宮を建てるのか
預言のことばはこのように始まっている。

1:2 万軍の【主】はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。【主】の宮を建てる時は』と言っている。」

ハガイ書の冒頭に書かれている「ダレイオス王の第二年」という記述から、これがBC520年の出来事だったことが分かる。
それは、彼らが帰還してからすでに16年ほどの時間が経っていることを意味している。
16年も経っていたのに、「まだその時ではない」と思っていたわけである。
彼らはエルサレムに帰還してからずっと自分たちのために言い家を建てることばかりを考えていて、神殿のことはずっと放置していた。
彼らが帰還した最大の目的は、破壊されていた神殿の再建だったはずなのに。

このような非難と励ましを受けて、ユダヤ人たちはようやく重い腰を上げて神殿の再建を始めた。
ユダヤの民が神さまの導きに従って行動をし始めた時、ハガイはこのような言葉を彼らに伝えた。

ハガイ 1:13 【主】の使者ハガイは【主】の使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる──【主】のことば。」

自分のことを考えて、自分のためだけに行動をしていた時には、主はユダヤとともにいなかった。
しかし今、主はともにいてくださる。
神さまは、私たちが好き勝手なことをしているときではなく、神さまに従って行動するときに共にいてくださる方である。

② ゼルバベルよ強くあれ
16年間放置されていた神殿は、わずか数ヶ月で形になってきた。
しかし、それを見てがっかりする人たちも少なくなかった。
それは、ソロモンが建てた素晴らしい神殿に比べてあまりにもみすぼらしかったからだ。

ハガイ 2:3 『あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。あなたがたは今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。
2:4 しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──

ここで注意するべきポイントは、神殿が貧弱であることを神さまが怒ったり嘆くのではなく、むしろ人々を励ましているということ。
神さまには、その神殿が豪華で大きいものであるかどうかはどうでもいいことだった。
大切なのは、「主がともにいてくださる」ということ。
器の大きさや豪華さの問題ではない。

③ 私たちの神殿を据える
この話を、私たち自身のこととして置き換えてみよう。
私たちは、自分のことばかりを優先して、神殿を後回しにしていないだろうか?
変な言い方になるが、神殿は神さまのためのものではなく、私たちのためのものである。
神さまは神殿を必要としない。
神殿を置くということは、私たちが神さまを自分たちの中に迎え入れるという行為。
だから、自分を伸ばすこと、整えること以上に、何よりも優先にするべきことだった。
神さまとの関係を築くことを先延ばしにしてはならないのだ。

でも私たちは、重い腰を上げてようやく心の内に神殿を築き上げても、その小ささ、みすぼらしさにがっかりしてしまうこともあるかもしれない。
まったく、私たちが作り上げる働きはどれほど小さく、みすぼらしいものなのだろう?

先人たちの働きに比べると、私たちが実現させるミニストリーの成果は、驚くほどに小さい。
神さまを中心として行動しているつもりなのに、その働きは一向に発展していかない。
人が集まらないこと、自分も含めて人が成長しないことに焦ったり、愕然とすることがあるかもしれない。
しかし、「心配しなくていい」「強くあれ」「私が共にいるから」と神さまは私たちに語り掛けてくださる。

私たちにとって本当に大切なのは、その働きや成果の大きさではなく、主が共にいてくれるかどうか。
外からどれほど素晴らしく見え、人がたくさん集まり、カッコイイ働きができたとしても、中身が伴わなければ意味がない。
しかしそこに神殿が据えられたなら、私たちの働きは実を結ぶようになっていくだろう。
命の源である、主がともにいてくださるのだから。