イザヤ書40章「慰めよ、苦役の時は終わり、咎は赦された」-主を待ち望むものは翼を張って昇らん-2022/03/13 小西孝蔵

〇イザヤ書40章
40:1あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、40:2ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、
そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。
40:3呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。40:4もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。40:5こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。40:6声が聞える、・・・「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。40:7主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。40:8草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。
40:9よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。40:10見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。40:11主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。・・・
 40:28あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。40:29弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。40:30年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。40:31しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

〇申命記32章
32:11わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、32:12主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。

〇詩編103篇3
主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、4あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、・・こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。

〇マタイ5章
5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

1.前回の振り返り
・前回は、2か月前、イザヤ書30~39章を取り上げた。メッセージの題は、30章15節の「立ち帰って静かにしているならば救われ、穏やかにして落ち着いているならば救われる」。ユダ王国が大国アッシリア帝国によって侵略されようとする絶体絶命のピンチに立たされた時期に、神でなくエジプトに頼ろうとしていたヒゼキヤ王に対してイザヤが語った預言の言葉。
・今日取り上げるのが第40章。40章から55章までは、いわゆる第2イザヤという別の人物が書いたという説が一般的。しかし、イザヤの晩年に書いたという説もある。いずれにしても、ユダが神に対する反逆の罪でバビロンに滅ぼされ、50~60年間にも及んだ捕囚時代の後半が背景になっている。
・イザヤ書40~55章は、預言書の順番で行くと、バビロン捕囚開始(前586年)のころ活躍したエレミヤ。バビロン捕囚の前半に活躍したエゼキエルの後の時代を背景。ペルシャのキュロス王による解放(前538年)までの捕囚期後半に絶望の中での希望の預言が語られる。その意味で、イザヤ書の中、預言書の中でもハイライトの一つ。
・21世紀の現代にも、この当時に似たような事象が起きている。現在、ウクライナ問題など国家や民族間の戦争、コロナ感染、飢餓などを目のあたりにするにつけ、イスラエルの捕囚時代に預言された剣と疫病と飢餓の災難を思い出される。2千数百年前の預言が私たちに語りかけてくる意味を受け止める必要があると思う。

2.40章の解説
①40:1あなたがたの神は言われる、「慰めよ、慰めよ、わが民を。・・・」
・「慰めよ」という言葉は、神に対する反逆に対する裁きとして、一切のものを奪われ捕囚の中に置かれたユダの民に対する、神の手による赦しと解放の宣言。一方的な恵みの宣言、福音である。
・「慰める」という言葉は、ギリシャ語で「パラカレイン」という。パラという言葉は、スキーでパラレルという滑り方にあるように、「並行」、「側」という意味がある。「パラクレートス」は、「側にいて下さる助け主」という意味で聖霊を意味している。この言葉は、マタイによる福音書5章4節の「山上の垂訓」の中でも使われている。「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」

②40:2「ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。
・「苦役」とは、英語で“warfare”。戦争で捕虜、捕囚となり、服役していることを意味している。「そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」とは、罪の2倍の対価に相当する刑罰を受けた。「倍返し」という言葉がはやった(半沢直樹)が、元は、ここからきている?人間に対する罪の対価を「目には目を、歯には歯を」という応報刑だが、神様に対する反逆の罪は、それよりも重い、倍返し。罪の値は死である(パウロの言葉)。しかし、もう十分に刑罰を受けたから、もういいだろうという恵みの宣言。恵みも2倍という趣旨にもとれる。
・「苦役は終わり、咎は赦された」は、厳しい神の裁きが赦しの宣言に一変。39章までが裁きと希望の言葉が交互に出てきていたのが、40章になって希望の宣言が中心テーマ。キリストの十字架による罪の贖いの福音そのものを指し示している。
・40章1~11節は、ヘンデルのメサイアの第1部の冒頭から用いられ、キリストの誕生の喜びとメシアの希望が歌われる感動的な場面。是非メサイアをお聞きください。

③40:3呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。40:4もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。このようにして主の栄光が現わされる・・・」。
・この個所は、バプテスマのヨハネが荒野でイスラエルの民に悔い改めを迫った際に、引用した言葉(マタイ3章3節)。パリサイ人らに対し、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言って、神に立ち帰れと呼びかけた言葉でもある。
・バビロンから西にまっすぐ帰還するには、アラビア砂漠がある(パワポ資料-地図)
実際は、北へ迂回して帰ることになるが、出エジプトに似たつらい荒野を体験したイスラエルの民の心境を著している。
・我々の人生も荒野にさまよう時がある。道なき道を歩んで、先が見えず、絶望的な気持ちにもなる。私のこれまでのささやかな荒野体験においても感じることだが、 若き日に、神様の存在が見えなくなり、人生がむなしく思えるときがある。また、 中年には、負い切れない責任を負わされて重圧に苦しむときがあり、また、家族の中で、大きな試練に直面する時もある。さらに、老年期には、病で苦しむときが増え、また、死が近づき、この世との別れに大きな不安を感じるときがある。そのようなときに、この言葉は慰めと励ましの言葉になる。

④40:6声が聞える、・・・「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。40:7主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。40:8草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。
・どんな権力者でも、どんな億万長者でも神の息が吹けば滅び去る。しかし、神の言葉は、永遠に変わらない、永遠の命が与えられる。この言葉は、第1ペテロ1章で、キリストの贖いと復活によって、われわれは新しくされたのだとして引用されている箇所でもある。
⑤40:9よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、・・・40:10見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。
・「よきおとずれ」とは, “Good news”福音そのもの、ギリシャ語で「イヴァンゲリオン」と訳される。旧約では、救い主の到来、神の義の実現という意味で、使われる。新約聖書では72回も、うちパウロ書簡で54回使われている。福音とは、神の国の到来を告げ知らせる。神様による支配は、真の平和をもたらす。

⑥40:11主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。」
・主は、各地に散らされた民を羊の群れのように、集められるという記述は、エレミヤ33章やエゼキエル書34章、詩編23編でも見られる。ヨハネの福音書10章11節「私はよい羊飼いである、よい羊飼いは羊のために命を捨てる」も思い出される。

⑦40:28あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。・・・40:30年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。40:31しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
・40章を締めくくるこの言葉は、特に有名な箇所で、多くの方がこの聖句から力を得られていると思う。私たちは、弱った時でも、聖霊の力に依り、新たにされて、鷲のように力を得ることができる。
・私の場合、1980年11月2日の家内との婚約式の時、聖書交換の際に英語の聖書の表紙の裏に書いて贈ってもらった聖句であり、特に仕事で試練の続いた荒野の時代に、励まされた言葉でもある。
〇詩編103篇3~5節「主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓から贖いだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、・・・こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。」
〇申命記32章
32:11わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、32:12主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。
・最近、母の介護で死を前にした母の不安な気持ちを励ます意味で、この聖句を一緒に読むことが多い。そうした時、「鷲のごとく翼を張って昇る」という意味が違った光景に見えてきた。申命記では、わしが巣の中にいるひなを敵から救出し、翼に乗せられて飛んでいくという描写になっているが、その方がより身近に感じられる。
・年と共に病気も増え、医者に通うにも増えてくる。身も心も年と共に弱っていく中、朽ちるべき運命にある私たちが、キリストの贖いと復活により、ひなを救うように、我々を助け出し、翼を広げてそのうえに乗せて天に引き上げて下さる、永遠の命を与えて下さる、なんという慰めであり、励ましであろうか。

3.まとめ
本日の聖書箇所イザヤ40章は、「慰めよ、苦役の時は終わり、咎は赦された」で始まり、「主を待ち望むものは翼を張りて昇らん」で終わっている。キリストの福音そのものを指し示している。裁きから赦しへ、滅びから救いへ、旧約から新約への接点というべき箇所。
私たちも、荒野の試練に置かれることがしばしばある。そのような時でも、父親に反抗を繰り返す私たちをも見捨てることなく愛し続けて下さる神様。悔い改めて、その神様のもとに立ち帰えれば、キリストの贖いと復活の力によって、滅びから救い出され、本当の慰めと励ましを与えられる。

(祈り)